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国際人権ひろば No.82(2008年11月発行号)
アジア・太平洋の窓
ベトナム・ソンミ村大量虐殺事件を振り返る
村山 康文(むらやま やすふみ)
フォトジャーナリスト
「参戦したくないものは、勉強をするか、自分の体を傷つけるしかなかったんです。兄は自ら眼を潰し、私は必死に勉強しました」。
徴兵逃れのため、歳をごまかし生きてきたグェン・ヴァンさん(53、実年齢は57)は、小さな声でゆっくりと語った。生まれも育ちもベトナム中部クアンガイ省。40年前、大量虐殺が行なわれたソンミ村(現ティンケ村)まで約30キロの田舎町で、妻と甥っ子の3人で暮らす。
ベトナムの戦争報道をする世界中のメディアを気にかけていたヴァンさんは、戦時中、ラジオから流れるイギリスのBBC放送によく耳を傾けていたという。
「BBCは当時、ソンミ村の事件を含め、ベトナムの戦争報道をきっちりとしていました。しかし、私自身が、ソンミ村のことをそれほど気に留めていませんでした。なぜなら、戦争で人が死ぬのは当たり前だと思っていたからです」。
米陸軍ウィリアム・カリー中尉率いる米兵部隊が、ソンミ村で504人(うち182人が女性[そのうち17人が妊婦]、173人が子ども[そのうち生後5ヶ月以内のものが56人]、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年)にも及ぶ大量虐殺をしたのは、1968年3月16日のことだった。
早朝5時30分、9機のヘリコプターから降り立った米兵は、いくつかのグループに分かれ、民家と避難壕を捜索。逃げようとしたものは出るそばから射殺され、避難壕には手榴弾を投げ込み、無抵抗の村民を次々と殺害していった。
現在、ソンミ村では奇跡的に虐殺を逃れた3人の生存者が生活を送っている。
そのひとり、ハー・ティ・クイさん(83)は当時43歳。母(65)、娘(16)、息子(6)とともに自宅近くの避難壕に身を潜めたが、他の村人とともにもっとも戦慄すべき虐殺の場所、トゥアン・イェン小集落(別名:ミライ第4地区)のはずれにある農業水路脇に集められ、そこで、米兵による一斉機銃掃射を受けた。
手を合わせて命ごいをする人にも、米兵は容赦しなかった。あるものは頭を撃ち抜かれ、あるものは銃剣で心臓を衝かれた。足や背中に銃弾を浴びたあと意識を失ったクイさん。「多くの遺体が私の上に覆いかぶさり、助かったのでしょう」と回想する。その場所だけで瞬く間に170人の命が奪われ、唯一クイさんだけが助かった。
農業水路は今、何事もなかったかのようにひっそりと、音も立てずに流れている。
「今の平和な時代、米兵に対する憎悪はありません」と話すクイさんは、その場所で目に涙をため、祈るように手を合わせた。
ソンミ村のいたるところで家屋や家畜を燃やし、村人の無差別殺戮に及んだ米兵。ほんの4時間あまりの間に、村は炎と死体の底に沈んだ。
68年3月16日に起きたソンミ村大量虐殺。軍上層部及び傀儡政権が、「世論を反戦に導く可能性が高い」と事実を隠蔽し続け、事件が明るみに出るにいたっては、なんと18ヶ月も経った翌年9月のことだった。
ヴァンさんは、小学4年生(小学校も遅れて入学:当時15歳、実年齢19歳
注釈)のころにソンミ村での大量虐殺の記事が書かれた米国雑誌Newsweek(71年4月12日号)を手に入れ、初めて実状を知る。
「雑誌を見たとき、かなりの衝撃を受けたことを覚えています。ソンミ村が、まさかこんなことになっているとは思いもしませんでした。他の町でのベトコン(南ベトナム民族解放戦線)は、夜になると女性、子ども問わず共産ゲリラになりました。おそらく米兵は、ソンミ村の住民を、米軍と敵対するベトコンの協力者と解釈していたのでしょう」と話した。
しかし、事実は違った。
この大量虐殺は、アメリカル師団第11旅団バーカー機動部隊の第20連隊第1大隊に属するチャーリー中隊(C)の第1小隊が直接実行し、組織的、かつ計画的な虐殺行為を行なったとされる。この第1小隊を指揮していたのがカリー中尉で、トゥアン・イェン小集落に突入した最初の部隊だった。
多くの証言によれば、この虐殺行為は、前夜の作戦会議において、チャーリー中隊の指揮官を務めたアーネスト・メディナ大尉の主張だったという。
この作戦に随行し、恐ろしい殺戮の光景を目の当たりにしたベトナム人通訳のドゥオン・ミン軍曹(当時26)は、事件から10年後、当時のメディナ大尉との会話を次のように明かしている。
『「(ソンミ村で)罪もない村民が撃たれており、家畜や家が燃やされています」
「みんな敵さ」
「いいですか? 兵士は武器や防御器具を持たない民間人を殺してはならないんです」
「奴らは俺の部下を相手に戦っているんだ」
「もしそうならあなたの部隊の兵士が敵の武器を捕獲するか、あるいは負傷しているはずです。でもそうじゃない。だとしたら、殺されているのは敵ではありません」』
メディナ大尉は困り果て、「俺はそうするように命令されているんだ。向こうへ行け!」とドゥオン・ミン軍曹に吐いたという。(ソンミ虐殺事件博物館パンフレットより)
事件が起きた翌年から次第に暴かれていくソンミ村大量虐殺事件。
大量虐殺の首謀者とされるカリー中尉は69年9月4日に告発された。続いて70年3月にはメディナ大尉が。同月、開かれた軍事法廷で虐殺に関与したカリー中尉、メディナ大尉を含む士官14人が殺人罪などで起訴された。しかし、カリー中尉が71年3月31日に終身刑の判決を言い渡されだけで、残りの13人は証拠不十分で無罪となった。
その後、74年4月には、カリー中尉の刑期が10年に短縮された上、翌年9月には、3年半の服役の後、仮釈放されたため、この不可解な措置は世界中から非難を浴びることとなった。
あの日、最大の被害を受けたトゥアン・イェン小集落に、現在、「ソンミ村虐殺事件記念館」が建てられている。記念館の辺りの田んぼでは、黄金色に実った稲穂が風に揺れ、小道には色とりどりの花が咲き乱れている。かつて、この地で非情なまでの惨劇が起きたとは、まったくといっていいほど感じることができない。
しかし、一歩、記念館の中に入ると、犠牲者504人の名前が刻まれた壁が、まるで「この悲劇を歴史上の忘れられぬ事件として後世まで伝え、世界がソンミ村のような出来事を二度と繰り返さないで」と、無言で語りかけているようにとれる。
大量虐殺が起きた現場から30キロ離れた町に住み、ソンミ村の事実を3年後に知ったヴァンさんはただ一点を見つめ、諭すように話した。
「『戦争』というものは、人びとの精神を狂わせます。争いの中では、人は時として獣のようになるんです。問題は、『戦争』そのものにあります。私が『戦争』から逃げたことは、決して間違いではなかったと、今でも信じています」と。
<注釈>
ベトナムで徴兵逃れのために年齢を偽装することは、戦時中、まま行なわれた。また、小学校の入学する年齢がまちまちであることもよくあるケース。小学校入学後も成績が芳しくない場合、留年や退学もある。