アジア・太平洋の窓
2010年1月、久々に新聞紙上でマレーシアに関する大きなニュースが国際面をにぎわすことになった。イスラム教徒がキリスト教教会を次々に襲っているという記事だ。2007年に内務省がイスラム教で神をあらわす「アラー」(Allah)という呼び名を中華系キリスト教者たちがキリストをマレー語で表すためにこの言葉を使用することを禁じた。昨年末にクアラルンプール高裁がこれを信仰の自由を保障する憲法に違反するとし、この機会に乗じた与党連合国民戦線(BN)の議員たちが扇動的な発言をすることによって混乱が深くなり、このような事態に発展した。きわめて政治的な出来事だ。
多民族国家の「宗教戦争」は一国を分断するような長い内戦へと続いていくこともあり、とてもセンセーショナルに扱われる。2008年行われた下院の総選挙でマレーシアは議会民主主義へとまちがいなく歩みだしたと確信できるが、まだ国内治安法(Internal Security Act=ISA)も廃止されておらず、こうした宗教の政治的利用がマレーシア国民にどういった影響をもたらすのか興味深いものがある。
マレーシアの総選挙は2008年3月8日に行われた。「TSUNAMI」と称される総選挙だったが、それから丸2年が経過しようとしている。マレーシアは半島部とその東に位置するサバ・サラワク州によって国家が形成されている。この総選挙は、半島部で行われたものだが1970年代からこの選挙に至るまで政権を独占してきた与党連合国民戦線(BARISAN NASIONAL)が圧倒的に独占してきた議席の多くを失うことになった。与党連合が 222 議席中 140 議席、野党連合(PAKATAN)が82議席を獲得した。政治を長期に渡って完全にコントロールしてきた与党が3分の2議席を守れなかったという事実は、日本の政権交代よりも驚くべきことなのかもしれない。
マレーシアは、人口約2,773万人の多民族国家だ。与党の国民戦線(以下 BN)は半島の多数を占める民族で「ブミプトラ」と呼ばれる国民の約7割を占めるマレー系住民(先住民族も含まれる)、また、英国の植民地時代に錫鉱山のクーリー(労働者)として移民してきた中国系住民、プランテーション労働者として移民してきたインド系住民を代表する政党の連合体である。これに対して、野党連合はそれぞれの民族を必ずしも代表しない政党の連合体となった。サバ・サラワク州は、住民の圧倒的多数がマレー人以外の先住民族なので、また別に語られる必要性があるだろう。マレーシアで BN が長年に渡って政治を支配してきた事実は、「民族間」の権益と対立を巧妙に利用した「民族の政治」として語られてきている。
しかし、この「民族」政党が連合体を作り政治を支配すること自体は、その「民族間」での利益が一致しなければそれが成り立たないということにすぐに気づくことになる。そこで「マレーシア」という国家がそれぞれの民族の利益を結びつける原動力となってきたのだ。私の友人も典型的な「マレーシア人」だ。母親は日本人で父親は移民してきたインド人二世。クアラルンプールで育ち英語と日本語を流暢に話す。マレー語は少しわかるが父親の母語であるタミル語はまったくわからない。彼女は実にさまざまな文化や生活様式を習得している。オーストラリアの大学に入学した当初、この友人の自分のアイデンティティに対する悩みは深かった。彼女からは長い時間をかけても簡単そうで解けないパズルを解いているような感覚が伝わってきた。自分を何かのカテゴリーに入れようとしても、マレーシア以外の国にいるとどうもぴったりしないようだった。しかし、ある時点で、彼女は自分が「マレーシア人」であることに気づいたらしい。以来、すっかりとはいえないがそのことに悩まされる日々ではないようだ。マレーシア国内でも移民二世以降の世代の人たちが多数派を占めるようになっていく。こうしたマレーシア人たちが成長しどの政党を支持していくのかが、マレーシアの政治的方向性を決める鍵となっていくだろう。
日本で「マレーシア」という国家よりも有名なのが、BN 体制に君臨してきたマハティール・モハメッド元首相である。1981年から2003年まで首相であったマハティール氏はこの総選挙の2ヵ月後、BN のマレー人政党、UMNO(統一マレー国民組織)を離党した。大敗を喫したとはいえ、人口の大多数を占めるマレー系住民を代表する与党政党の UMNO にとっては大きな痛手となり、その政治的安定基盤は揺るがされることになった。マハティール氏は、「開発政治」と「民族政治」、そして「独裁政治」を巧みに行い、小さな国家であるマレーシアを「近代国家」に導いた非常に稀な政治家であった。
冒頭の出来事「イスラム教」対「キリスト教」は、マレー系住民と中華系住民の間の対立を意味する。1969年のマレー系住民と中華系住民の対立によって起こった暴動の際、裁判を行わずに何年でも身柄を拘束できる ISA のもとでの政府の強圧的な取り締まりが行われた。マレーシアの人びとには、culture of fear(恐怖の文化)が心の底にしっかりと根付いているといわれている。マレーシアでは、これまで政治的危機が起きると ISA が発動されてきた。大量の逮捕者が出るが暴動とは何の関係もない NGO のメンバーや弁護士らが同時に逮捕されている。「民族政治」のダイナミズムの中で細々と、しかし、綿々と続いてきたのがこの ISA に反対し、民族を超えた統一国家をめざす運動であった。活動家の多くは中華系、インド系であった。
アジア経済危機に苦しむ1998年にマハティール首相のもとで当時の副首相だったアンワル・イブラヒム氏が ISA によって逮捕された。マハティール首相がナンバー2であったイブラヒム氏の経済政策とその人気に危機感を持ったことが原因だ。彼の逮捕への抗議運動が様々な民族を超えた運動の結集へとつながり、2008年の総選挙へと続いていく。
マレー系住民の権益を代表していたはずのアンワル氏の逮捕がきっかけとなり、マレー系住民自身が、民族政治に基づいた国民国家を築いていたマハティール首相に異議を唱え、それを超えた人権運動へとつながりをもとめていくことになる。同時に経済のグローバル化は民族政治のもとで相対的貧困を強いられてきたインド系住民を更に追い詰め、貧困に反対する運動とも結びついた。今回の選挙で野党連合の中心となったのが、PKR(人民正義党)だ。この人民正義党には多くの人権活動家や NGO のメンバー、社会主義政党のメンバーの合流があった。当然ながら、アンワル氏の支持者であるマレー系の人びとも合流し、アンワル氏の解放運動から政党活動へと変容を遂げていった。
こうして考えてみると、今回の事件は、「民族政治」を基盤にした国民国家という幻想をもう一度、マレーシア国民の間に復活させたかった与党の試みがおそらく失敗であっただろうことを示している。「マレーシア人」の多くはすでに「民族」に惑わされない「マレーシア国民」としての意識が根付いていると思われる。
この事件の後、ウォール・ストリート・ジャーナルにアンワル氏と現マレーシア首相であるナジブ・ラザック氏の論文が紙面の上下に掲載された。ナジブ氏は、普遍的な人権主義と単純に民族や宗教の違いを超えた「民族融和」を呼びかけている。一方、アンワル氏は偏狭なイスラム主義とそれを政治的に利用する権力者たちを真っ向から否定している。マレーシアの民主化がどういった形でこれから発展していくのか目が離せないが、同時に、これから進むべき道筋もそれほど見えないわけではないだろう。