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国際人権ひろば No.33(2000年09月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

厚仁の信じたもの、追い求めたもの、そして残していったもの

中田 武仁(なかた たけひと)
中田厚仁記念国連ボランティア活動支援事務所・国連ボランティア名誉大使

 幕末、黒船の来航以来、日本中が物情騒然とした中で、坂本龍馬は剣の稽古に励んだ。北辰一刀流、千葉道場の塾頭にまでなった龍馬の姿を見て、彼を取り巻く人々は「これからは剣の時代」と、皆が龍馬のやったように剣の稽古に励んだが、龍馬に会ってみると、龍馬はピストルを見せながら、「これからは剣のようなものを振りまわしている時代ではない。ピストルが役に立つ時代だ。」と人々に言ったが、今度、龍馬に会った時には、龍馬は、剣もピストルも身につけていない。「これからは、身を護るのも、国を護るのも、これだ。」と言いながら、龍馬は懐から、一冊の本を取り出した。それは、当時の言葉では「万国公法」。いまで言う「国際法」であった、という逸話は有名である。しかし、龍馬は三十三歳の若さで暗殺された。殺害者は今もって謎である。

 「私は国際的な分野で仕事をしたいと念願し、将来もこの分野で仕事を続けるつもりでおります。私はふたつの理由から、カンボジアで国連ボランティアとして働きたいと願っています。国連カンボジア暫定行政機構は、国連として初めて実質的にひとつの国を運営する試みです。そのなかで、選挙監視員として働くことは、冷戦後変化しつつある国連の活動の仕組みについて、包括的な視点が得られると確信しています。これが第一の理由です。第二の理由は、カンボジアでのフィールドワークの体験は、私の関心そのものであり、私の将来の職業的な目標に欠かせないからです。

 とりわけ、第二次大戦で″地面に叩きつけられた国″ポーランドで少年時代を過ごした私は、それ以来ずっと、どうすれば戦争は避けられるのか、ひとたび戦争が起きたなら、どのようにすれば復興が達成されるのか、常に関心を持ってきました。これらの問題を解決するために、必要とされるときはいつでも参加できるよう、準備を心がけてきました。私は、国際法と国際関係論を専攻し、欧州審議会(一九四九年に、西欧諸国間で誕生した最初の国際政治機構。加盟国は民主主義の基礎である法の支配と人権、基本的自由の尊重を受諾する。一九八五年、ゴルバチョフが欧州統一を訴える演説をした)の人権擁護部で研修し、陸上自衛隊の体験プログラムにも参加しました。私はいまこそ、自分のすべての経験と能力を、祖国を再建しようとするカンボジアの人たちを助けるために使いたいと願っています。」

 以上は私の手元にある、厚仁(息子)が国連ボランティア計画本部に提出した国連ボランティアに応募する理由を厚仁自身が書いた文章だが、英文で書かれた原文そのままが、カンボジアで行われた厚仁の追悼式で読みあげられた。 私は、この文章に若者だけが持つ、清冽な自負心を見る思いがする。

 平成五年(一九九三年)四月八日、私は仕事の旅先で妻からの電話で、厚仁の身に起こったことを知らされた。厚仁は、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)の、カンボジアにおける制憲議会選挙準備の任務遂行中に一人の国連ボランティアとして殉職した。厚仁は、法と秩序の世界を信じながらも、その力の及ばないところで、カンボジアに平和で民主的な国作りをするための仕事に二十五年三カ月の短いいのちを捧げた。厚仁は、その生涯の最後の最後まで、「地球に平和を!」と念じ、カンボジアの人たちが、「自分たちの望む国を、暴力によらずに、自分たち自身で作りたい。」という切なる願いを実現するために、自分の持つすべての能力、情熱、エネルギーを燃焼させたのであった。

 コンポントムのプラサットサンボで仕事をしていたアメリカ人の国連ボランティアの青年が、一時休暇を日本で過ごし戻ってきた厚仁のことを話してくれた。「帰って来たアツ(厚仁は生前皆からアツの愛称で呼ばれていた)の姿を見て、カンボジア人のスタッフがみんな、わあっと寄っていった。アツ、アツっていいながら。それを見て、私はジェラシーを感じた。」選挙人登録で村々を回って川にぶつかれば、フェリーを使い、フェリーが行けなくなるとカヌーを使い、泳いで回ったときもあるといった話も聞いた。

 五月二十三日カンボジアで総選挙が行われた。厚仁が担当していた地域の選挙人の登録率は九九.九九%であった。投票箱を開けてみると、投票用紙に混じって、手紙がボロボロ出てきた。

 「・・・・いままで、民主主義とか人権とかいう言葉にも触れることなく、一生戦争の中で暮らさなければならないのかと思っていたけれども、こうやって、初めて自分の意思をあらわせる選挙ができ、こんなに嬉しいことはない。ありがとう。・・・」

 「中田君のご家族へ。アツヒト。君がコンポントムにいた頃、僕と一緒に喋ったり、ふざけあったり、コンポントムの情勢について僕が君に教えたりしたことを大変懐かしく思います。アツヒト!僕もポル・ポトによって父を殺されました。今日、僕には頼るべき身寄りもありません。アツヒトの知っている通り、僕はただの学校教師です。しかし、君の僕に対する接し方は友達以上のものでした。僕にはそれがすごく嬉しかった。しかし、友だちになれたと思った矢先、君は僕たちから遠く離れてしまいました。僕は日本にいる皆様を僕の家族と思っています。僕は日本に自分のお父さん、お母さんがいると思っているのです。もし、そう思っている僕を許して下さるのなら、こんなに嬉しいことはありません。日本人とカンボジア人の友好が今までの歴史にない良い関係になることを願っています。」

 厚仁が息を引き取ったその場所は、元々人っ子ひとり住んでいない場所だったが、その地に、カンボジアの各地から三三五五人々が集まってきて、およそ三、○○○人からなる全く新しい村(コンミューン)を作り、その村にカンボジア政府の正式許可を得て、公式に「ナカタアツヒト・コンミューン(村)」と命名され、厚仁がコンポントム州の最高名誉州民に選ばれたということを知った時、言葉にならない大きな感動が私を押し包んだ。

 そして、一年後カンボジアを襲った大洪水が「ナカタアツヒト村」の人たちが食べている米をすべて流してしまい、翌年の種籾まで食べつくしてしまわないと生きていけないという危険を知った私が、日本の皆様に「ナカタアツヒト村を救おう!」と募金を訴えかけた。それに応じた大勢の方が「このお金で、ナカタアツヒト村の人たちが食べていく食料を買う足しにして下さい。」と言われたので、私はそのお金を持って、駐日カンボジア大使にお届けに行った時、駐日カンボジア大使から聞いた、ナカタアツヒト村の方々のお答えはこうだった。

 「私たちは今、文字通り、喉から手の出るほど、お米が欲しい、お腹を一杯にしたい。けれども、これは我慢する。私たちは、中田厚仁さんが世界市民として生きられた、その志を、そして、日本の大勢の皆様のあたたかいお心を私たちの子どもたち、孫たち、そして子々孫々に伝えて行くために、中田厚仁さんが息を引き取られた、まさしく、その場所に学校を作りたい。」これを聞いたその時、私はもはや自分の気持を表す言葉を見つけることが出来なかった。

 そして、一九九八年八月二十四日、近隣の集落から早朝より歩いて、ナカタアツヒト村に集まってきた人たちも含めた、何と六、○○○人ものカンボジアの人たちと大勢の国際社会の人たちの祝福する中で「ナカタアツヒト初等学校」が開校した。私はその時の、カンボジアの人たちの美しいほほえみと、子どもたちのつぶらな瞳を生涯忘れ去ることが出来ないだろう。

 今、ナカタアツヒト村には、カンボジアの人たちによるボランティアグループ、NGOが出来、地域の人々の保健衛生向上、自己啓発、教育、植林、養魚、協同精米所の建設、職業訓練所の整備など、多くの自立、自活のための活動を活発に行い、そして今度は、自分たちの村以外から技能、知識を教えて下さる人たちをお迎え出来る「アツ迎賓館」を、二○○○年八月四日完成させた。

 今改めて、ここに述べるまでもなく、私たち地球上に生きるすべての人々は、尊厳を持って生き、そしてその生涯を健やかに全うする権利を持っている。そして、まさしくその権利が暴力でもって、奪われようとした時、たった一つしかない、かけがえのない自分のいのちを捧げてまで、これを護ろうとした「世界市民」がいたことを、どうか、誇らしく、永くみなさんの心の中にとどめておいてやって戴きたい。

 謙遜は、確かに、美しい姿ではある。しかし、一人の人間が出来ることを、決して過小評価してはならない。そして、この言葉を、どんな時でも決して忘れないで欲しい。

 「私たちは、みんな 必要とされている人なのです。」

* ヒューライツ大阪では2000年度の市民セミナー(第一回、11月25日)で中田武仁さんに同タイトルでのご講演をいただきました。