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知りたい!人権Q&A

人権の概念や内容に関すること
人権教育では「思いやり・やさしさ・いたわり」といった価値を教えたらいいのでしょうか?

Answer

 「人権教育と研修に関する国連宣言」第1条には、「すべての人は、人権と基本的自由について知り、情報を求め、手に入れる権利を有し、また人権教育と研修へのアクセスを有するべきである」と記されています。しかし「自らの人権を学ぶ」ことは、人権教育の根本的な部分でありながら、「学校で子どもに権利を教えると、自分勝手な主張が増えて、学校がまとまらなくなる」とか、「子どもにはまずは義務を教えるべき」という市民意識は根強く、それゆえ学校における人権教育は、表面的な憲法学習や「思いやり・やさしさ・いたわり」といった徳目的な価値の学習にとどめられてしまいがちです。こうした傾向は市民啓発にも共通するかもしれません。

 人権教育において、「おもいやり・やさしさ・いたわり」といった言葉を使うとき、「パターナリズム」(保護主義、父権主義)との混同がないか、検証する必要があるでしょう。「弱者に対する配慮」や「温かな人間関係」による問題解決を理想として描き出す一方で、「弱者とされる側」が権利を主張したり、その実現を求めて立ち上がることを「争議的」だと、否定的にとらえていないでしょうか。また、守ってもらう、面倒を見てもらうべき「弱者」の側は、あくまで従順で、強者からの期待を素直に受け入れ、応えるべきだといった考え方が背景にないか、と考えてみる必要があるでしょう。

 「弱者を思いやろう、助けてあげよう」という意識は、時に「強者」である自分と相手との間に横たわる、非対称な力関係を意識せぬまま、「相手のために良いことをする」ことを正当化してしまいます。例えば女性、子ども、障がい者、高齢者が人権の主体であり、自己決定の権利を持つということを忘れてしまってはいないでしょうか。人権の視点から人を本当に「おもいやる」ことは、保護主義とは異なり、権利を持つ当事者が、エンパワメントされ、自己決定をすることを大切にすることです。国連で障害者権利条約が審議されたプロセスで、「我々のことを我々抜きに決めるな」(Nothing about us without us)というフレーズが、障がい当事者の側から繰り返し提起されたことは、障がい者が保護主義の対象にされ、自己決定のプロセスから排除されてきたことへの、強烈な問題提起の声でした。

 さらに「思いやり・やさしさ・いたわり」型のアプローチは、人権に関わる問題を市民相互の私的な人間関係の中で、「心の持ちよう」によって解決するよう促そうとしています。ここには「国」と「市民」の関係は介在せず、人権を実現する公的機関の責務や、法・制度の確立による解決の道筋が見えません。このことは、自己責任、自己救済の風潮が強化される社会にとっては都合がよいかもしれませんが、人権問題を民主主義のメカニズムを通じ、諸制度を構築しながら解決することにつながりません。私的な心配りや配慮は大切なことであっても、人権問題はそれだけで解決されるものではないはずです。

 なお、再び、「人権教育と研修に関する国連宣言」に立ち返ってみると、そこには「教育」だけでなく「研修」という言葉が使われていることにも注意が必要です。「市民」だけが人権教育の対象なのではなく、市民の人権を実現する「責務の保持者」の研修があわせて重視されているからです。権利の保持者(rights-holders)である市民が人権について学ぶだけでなく、人権を実現する責務を持つ側(duty-bearers)の意識と応答力を研修によって高めなくては、人権は「絵に描いた餅」になってしまうからです。人権を学ぶことを、教育と研修という両面からとらえることは、人権を「市民」と「国」の関係の中からとらえることにつながります。
 

(阿久澤麻理子)

※参考 阿久澤麻理子「人権教育再考――権利を学ぶこと・共同性を回復すること――」石埼・遠藤編著『沈黙する人権』法律文化社 2012年

こちらもご覧ください。
人権教育とは https://www.hurights.or.jp/japan/lecture/ 
人権教育および研修に関する国連宣言(資料館:人権教育の推進)https://www.hurights.or.jp/archives/promotion-of-education/post-5.html