小山 帥人(こやま おさひと)
ジャーナリスト、ヒューライツ大阪理事
津波の映像を見るとつらくなる。まして津波に巻き込まれて亡くなった子どもの話を聞くのは心が苦しい。その一方で、たくさんの子どもが津波の犠牲になった小学校のことは、ずっと気にかかっていた。
地震から津波が来るまで51分間あったという。その間、学校で子どもたちはどうしていたのか。安全なところに逃げられなかったのか、自分が教師だったら的確な指示を出せていただろうか。何度かテレビで取り上げられたことがあるが、もやもやした気持ちが残っていた。
「想定外」で責任逃れ
2011年3月11日の東日本大震災で宮城県石巻市の大川小学校では全校児童の70%にあたる児童74人(うち行方不明4人)、教職員10人が亡くなった。
人の命はなにより大切なものだ。そして未来ある子どもの命を守ることは、言うまでもなく、大人にとっての義務だ。
福島の原発がメルトダウンした時、東京電力は想定外の津波だったと言い、裁判所も経営者の責任を問わなかった。しかし、大津波の想定はあった。問題はそれを実際に起こりうることとして捉える人があまりにも少なかったことだ。
子どもを亡くした親の立場になれば、子どもたちが助かる方法があったのではないかと考えるのは当然なことだ。遺族たちは、学校や教育委員会、行政との話し合いを繰り返し、それらの映像と音声の記録を始めた。
資料を廃棄した教育委員会
このドキュメンタリー映画は、遺族たちが撮影した映像を素材にしている。話し合いでの親たちの詰問の口調が激しくなるのは当たり前だ。
しかし、学校や教育委員会、行政は、保護者と共に被害の原因を探り、問題点を見つけようとする姿勢がまるでないように映像では見える。彼らは「山に逃げよう」という声があったという児童の証言を無視した。教育委員会は聞き取りの記録も廃棄してしまった。頭だけは下げるが、都合の悪い情報は隠すという組織の論理が、真相を覆ってしまっていた。
これは日本の行政の決定的にダメな点だ。行政担当とはいえ、人間だから誤ることもあるだろう。しかし「行政は間違わない」とする虚構に立脚する彼らは「震災は宿命」とか「想定を超えていた」と主張して責任を曖昧にしてしまう。日本はこんな理屈で、何度被害を繰り返してきたことか。
話し合いでは事実関係すら明らかにならず、いく組かの保護者が裁判という手段に訴えたことは無理からぬことだ。「金目当てか」などの心ない批判や脅迫状に負けず、遺族たちは事実の確認に努める。すぐ裏にある山の安全な高さまでたどり着くまでどのくらい時間がかかるのかの検証映像では、およそ1分間だったことが証明された。
裁判は組織的な責任を指摘
裁判の第一審では、現場教師の過失だけを認めた判決だったが、第二審では、平時の避難訓練のなさなど、行政や教育委員会、学校管理者の組織的な過失を認め、最高裁で確定した。遺族の努力が引き出した判決だ。
映画の中で、米村滋人東大教授は「もしも、この判決がなかったなら1万7000人の犠牲者を生んだ東日本大震災は日本社会に何も教訓を残さなかったと思う」と述べている。
子どもの命を守ることはなにより優先されなければならない。組織の自己保身や、経営の論理や、金銭問題に従属させてはならないのだ。
津波で亡くなった子どもたちの写真を掲げ、裁判所に向かう遺族たち
<「生きる」大川小学校 津波裁判を闘った人たち>
監督:寺田和弘
2022年/ 日本映画 / 2時間4分/
配給:きろくびと
<上映>2月25日(土)より第七藝術劇場、3月10日(金)より京都シネマ、3月11日(土)より元町映画館
(https://ikiru-okawafilm.com/)
(2023年02月02日 掲載)