買春禁止法とは
フランスのストラスブールに設置されている欧州人権裁判所は2024年7月25日、フランスにおける買春禁止法が欧州人権条約に違反しないという判決をくだしました。
フランスの買春禁止法は、性的サービスの購入(買春)を犯罪とする一方で、性的サービスの提供(売春)については非犯罪化するという「スウェーデンモデル[1]」にならうもので、2016年4月に成立しました。
買春禁止法成立以前は2003年から施行されていた売春防止法によって性的サービスを提供する側による勧誘行為に罰則(勧誘罪)を科していましたが、これについては売春の非犯罪化に伴い廃止されました。フランス政府は売買春について「廃止論[2]」の立場をとっており、買春行為を犯罪化することで売買春および人身取引ネットワーク拡大を支える需要の抑制を通じて最終的には売買春を廃絶することを目指しています。同時に売春を行う人びとについては「非行」ではなく支援されるべき「被害者」とみなしている点が売春防止法と異なります。
一方で「スウェーデンモデル」についてセックスワーカー[3]の権利運動の立場からは、買春の犯罪化は取引が地下に潜ることを招き人権侵害の悪化につながるという懸念や、ワーカーの貧困化、健康への悪影響、スティグマを温存するなどの批判もあります。
原告らの訴え
フランスの買春禁止法に対しても、セックスワーカーら261名が欧州人権条約第8条(私生活及び家庭生活の尊重についての権利)などに違反しているとして2019年12月に欧州人権裁判所に訴えていました。原告らは、買春禁止法が成立する前は、提供する性的サービスの条件をワーカー自身が決定する権限を持ち、コンドームの着用など性感染症予防を顧客に求めることができていたが、買春の犯罪化で需要が減少したことで、ワーカーたちは交渉力をうしない、より低い対価でより危険な行為を断ることができなくなったと証言しています。
原告らは、買春禁止法は強制された売春や未成年者の売春などの性的搾取と、セックスワーカーの自由意思による同意に基づく行為とを恣意的に混同していると批判しています。そして、アムネスティインターナショナルなどのNGOによる人身取引に関する調査を踏まえながら、買春の犯罪化は強制された売春を含む人身取引の根絶という目的に対して効果的ではなく、むしろセックスワーカーを孤立させ、その労働および生活の環境を悪化させてきたと主張しています。
フランス政府の主張
フランス政府は、買春禁止法の成立は①売買春は本質的に暴力そのものであり、人の身体を商取引の対象とすることは人としての尊厳及び価値に反する[4]、②売春をしている人の大多数が人身取引の被害者であり、買春の需要を枯渇させることによってのみ人身取引と闘うことができる、という2つの認識が前提にあるとしています。そして、買春禁止法がセックスワーカーの労働および生活の環境を悪化させたという原告らの主張に対しては、買春行為の犯罪化とセックスワーカーを標的とした暴力との間に直接の因果関係があることを示す根拠が不足していると反論しています。
またフランス政府は、フランスにおける「廃止論」に基づく法的枠組みは売春を違法とはせずに売春への参入の抑制と売春者の社会への再統合を支援するよう企図されており、原告らが訴えるように買春行為の犯罪化が同意に基づく状況に対しても影響を及ぼすものであったとしても、目的の正当性から条約第8条2項[5]を逸脱するものではないと主張しています。
欧州人権裁判所の判断
欧州人権裁判所は、強制された売春と人身取引のネットワークを根絶する闘いが必要であるという認識は原告とフランス政府との間で一致しているとし、その目的に対する買春の犯罪化という政策が原告におよぼす負の影響との均衡性、そして政府に認められる裁量の範囲にあるかに重点をおいて審理を行っています。
その上で、原告らが買春禁止法の影響を直接受ける立場であることを認識しながらも、原告らが主張する負の影響が買春の犯罪化によって直接引き起こされたか否かに関しては一致した見解がないと述べています。
また、欧州人権裁判所は売買春をめぐっては道徳的および倫理的な議論を呼び起こすことに留意しながら、売買春に関する欧州評議会各国のスタンスや法体系について、フランスのように廃止論に沿ったアプローチから売買春の双方を違法とするアプローチ、一定の規制の範囲における合法化など様々であること、人身取引根絶の目的に対する買春の犯罪化の有効性についても欧州レベルおよび国際レベルで活発に議論がなされている状況であることを鑑みて、売買春および人身取引に関わる政策については政府に広い裁量が認められるとの判断を示しています。
総合して、欧州人権裁判所は、買春禁止法が政府に認められた裁量の範囲内であり欧州人権条約の違反には至らないと結論づけています。
分かれる専門家の評価
欧州人権裁判所の判決を受けて健康の権利に関する国連特別報告者のトラレン・モフォケン氏は、7月25日に懸念をあらわす声明を出しました。モフォケン国連特別報告者は「セックスワークは現実にある労働である(Sex work is real work.)」と述べ、国家にはセックスワーカーの人権を尊重、保護、実現する義務があることを訴えています。また、性的搾取を目的とした人身取引とすべてのセックスワーカーを結びつけることは、性的サービスを提供する人びとの自律性と主体性を否定することであり、セックスワーカーの人権を尊重する最善の方法は安全な労働環境において収入が得られるようセックスワークの非犯罪化であると強調しています。
他方で、女性と少女に対する暴力に関する国連特別報告者のリー・アレサレム氏は、7月26日に同判決を歓迎する声明を出しました。アレサレム国連特別報告者は、売春の非犯罪化と買春の犯罪化を同時に実現することで性的サービスを提供する側と購入する側との力関係を転換させ、暴力が起きたときに顧客を告発することを可能にするという効果を裁判所が認識したと評価し、「性的搾取に対する免責が確立されることに懸念を示していた売春を行う女性や少女たちにとって大きな勝利である」と述べています。
欧州人権裁判所は、買春禁止法が欧州人権条約違反には当たらないと判断を示しながらも、性的行為の購入に対する一般的かつ絶対的な禁止に基づくアプローチを採用している場合には、ヨーロッパ社会の変化やこの分野における国際規範、さらには特定の状況におけるこの法律の適用によって生じる影響に応じて、それを柔軟に調整できるよう、常に精査を続ける必要があるという見解もあわせて述べています。
【参照】
Special Rapporteur concerned by European Court decision on anti-prostitution law
Special Rapporteur welcomes European Court decision validating conventionality of French law of 13 April 2016 criminalising purchase of sexual acts
欧州人権裁判所判決文(フランス語)
https://hudoc.echr.coe.int/#{%22itemid%22:[%22001-235143%22]}
[1] 世界に先駆けてスウェーデンが1999年に買春を犯罪化。以降、2009年にノルウェイおよびアイスランド、2016年にフランス、2017年にはカナダとアイルランドが買春を犯罪化している。
[2] 性的行為を商取引の対象とすること自体が人権侵害であり廃止するべきという立場。
[3] セックスワーク/セックスワーカーという言葉は、1980年にアメリカでキャロル・リーによって提唱された。性的行為の提供を労働(work)として捉え、労働者としての権利性を重視する思想が反映されている。
[4] フランスが批准している国連人身売買禁止条約(1949)の前文において「売春及びこれに伴う悪弊である売春を目的とする人身売買は、人としての尊厳及び価値に反するもの」と位置付けられている。
[5] 欧州人権条約 第8条2項
この権利の行使については、法律の基づき、かつ国の安全、公共の安全若しくは国の経済的福利のため、また、無秩序若しくは犯罪防止のため、健康若しくは道徳の保護のため、又は他の者の権利及び自由の保護のため民主的社会において必要なもの以外のいかなる公の機関による干渉もあってはならない。
(2024年09月02日 掲載)