カナダに向かう直前に撮影された知人の家族写真。
難民向けの集合住宅に住んでいた。(2023年6月末/ガザ)
「家族は自宅を離れ、Tal al Sultan(エジプト国境近くでガザ地区最南端の街ラファの西部エリア)に避難した。生きてはいる」。
日本時間の2023年12月5日夜に、ガザ在住の知人からメッセージがきた。イスラエルはガザ北部に続き、12月2日から南部への地上侵攻を開始。ガザ地区南部ハンユニスの東側にある知人の家も安全ではなくなったのだ。
彼とは、9月下旬に海外で会っていた。海外でしか話せないこともあるため、大学の調査プログラムで3か月間カナダに滞在していた彼を訪ねた。その後10月初旬に、彼は飛行機でカイロに向かったが、カイロからガザへ移動しようとしていた時に今回の事態が起こった。ガザ地区に入るための検問(国境)が開かないため、今もエジプトにいる。
10月7日から12月15日までのイスラエル側の犠牲者が約1,200人。他方パレスチナ側は、ガザ地区で18,800人以上、ヨルダン川西岸地区(以下、西岸地区)でも297人の犠牲者が出ておりイスラエルの十数倍だ。しかしむしろ深刻なのは、地区内の家屋の半分以上が破壊され、住民の大半が避難民になったことだ。国連によれば、時点でガザ内部の避難民は推計190万人(人口の約85%)であるが、(イスラエルによる)避難命令によって、190万人が「ガザの3分の1にも満たない場所に集中する」。(12月4日に国連関係機関の責任者)
ガザ地区の家屋やインフラの破壊を通じてイスラエルが狙っているのは、ガザ地区住民の「自主的な地区外退避」だ。11月13日、イスラエルの与野党の議員がウオールストリートジャーナルに寄稿し、ヨーロッパを含む国際社会に対しても、ガザ地区からの難民の受け入れを求めた。さらに11月29日にネタニヤフ首相に近いイスラエル日刊紙が、イスラエル政府はアメリカ下院に対し、「エジプト、イラク、イエメン、トルコに対する援助に、一定数のパレスチナ難民の受け入れを条件づける」提案をしたと報じている。
博士号を取得できたのは数年前。入学が許可されていた
アメリカの大学院は、ビザが発行されず断念。2018年、4日間だけ封鎖が
解除されたタイミングでガザを出て、ビザが取得できるトルコへ。
博士号は、内戦状態のスーダンで取得した。(2018年12月/トルコ)
イスラエルがこうした行動にでることは、予想できるものだった。シオニズムが理想とし、最終目標とするのは、「ユダヤ人のためだけの民主主義国家」だ。
「領土」でいえば、「より広い面積を領土化する」ことになる。具体的にいえば、イギリス委任統治時代の「パレスチナ」(現在のイスラエル領と、西岸地区及びガザ地区)を合わせた土地で、最大面積の獲得を目指しているのだ(ヨルダン領など、より広い領土の拡大を目指す考えもある)。
同時に、「人口」については、「全て/大多数がユダヤ人」の国家の実現だ。そしてこの目標を達成するためには、占領地にいるパレスチナ人を減らす以外に方法はない。
まず標的になったのが、住民の8割が難民であるガザだ。今回は、地区住民の外部への「移管」(1 について、少なくとも西側社会の了承を得るつもりだろう。
イスラエルにパレスチナ全土の領土化に向けた取り組みを具体化させたのが、1967年の第三次中東戦争の完全勝利であった。イスラエルは、エジプト、シリア、ヨルダン、イラクと戦った。結果イスラエルが、(ヨルダンが統治していた)ヨルダン川西岸地区(エジプトが統治していた)ガザ地区、(エジプト領)シナイ半島、(シリア領)ゴラン高原を軍事占領した。
国連安保理は、こうした占領地からの即時撤退を決議したが、イスラエルは従わなかった。イスラエルにとって特に西岸地区(後にイスラエルが併合を一方的に宣言した東エルサレムを含む)は、将来的な領土として欠かせない場所であり、そこが支配下に入ったのだ。早速イスラエルは、国際法の違反行為である入植行為(ユダヤ人の移住)を開始した。(1979年、エジプトはアラブ諸国で初めてイスラエルと和平条約を締結し、その代わりに1982年にシナイ半島がエジプトに返還された。)
最終的に西岸地区を領土にするためには、国際社会の承認が必要になる。その契機になったのが1993年に締結されたオスロ合意だ(2 。国際社会は、イスラエルに占領地全てからの撤退を強いない姿勢に変わった。これを契機にイスラエルは、国際社会に、年数をかけて「占領地のより多くを領土にする」ことを認めさせるように働きかけ始めた。
オスロ合意は占領者イスラエルと被占領者のパレスチナが、重要事項を話し合いで決める仕組みになっている。協議の前提として、例えば西岸地区はその60%以上がイスラエルの管轄地と規定された。これはパレスチナの独立を実現するための一時的な交渉基準であったが、交渉が破綻しても、基準は破棄されなかった。
イスラエル政府管轄地、特にそこにおける入植活動の違法性についても、曖昧な状態になった。1993年からの30年間で、(東エルサレムを含む)西岸地区におけるユダヤ人(入植者)の人口が3倍近くに急増するなど、イスラエルは領土拡大の準備を大手を振って進めてきた。(3
イギリス委任統治時代の「パレスチナ」(現在のイスラエル+占領地)を100%とすると、「占領地」(東エルサレムを含む西岸地区+ガザ地区)の割合は22%でしかなかった。つまり将来的にパレスチナ国になりえる面積は、93年の時点でも最大でその22%であった。さらにその60%がイスラエル政府管轄地となり、現在ではイスラエルの準領土となってしまっているのだ。これではパレスチナが独立しても、国家として破綻することは目に見えている。(4
なぜこんなことになったのか。オスロ合意は、パレスチナの早期独立を図るための現実的な取り決めのはずであった。それを、アメリカ等の西側諸国が国際法や国連安保理決議を実質的に無効にする「準国際法的」として扱ったのだ(5 。イスラエルは30年間、それを利用して領土拡大を図ってきた(同合意では、パレスチナ難民の帰還についてまで、パレスチナ側との協議で決められることなっている)。(6
しかしイスラエルには、次なる課題が残っている。オスロ合意の枠組みを利用してイスラエル領の拡大が達成できた後には、パレスチナ人口を減少させる施策が必要になる。今回の事態で、イスラエルは、「人口」問題について具体化する段階に入ったのだと推測される。第三次中東戦争の交戦相手であり、当時の西岸地区やガザ地区の統治者であったアラブ諸国に、責任を負わせようとしているのだ。
第三次中東戦争の戦後処理ともいえるオスロ合意は、イスラエルにとっては、国際法の解釈を変え、領土拡大を正当化するための枠組みであった。これを第一段階だとすれば、パレスチナ人口を周辺アラブ諸国等へ「移管」しようとする今回の取り組みは、第二段階といえる。土台固めとして、エジプトのように、「弱く」、「使えない」、第三次中東戦争での敗戦国に、アメリカと共同して圧力をかけている。
「使える国」とは関係性を強め、支持基盤を強めてきた。2020年にUAE(アラブ首長国連邦)、バーレーンがイスラエルとの和平に合意したが、国交正常化の条件にパレスチナ問題の解決は含まれていない。この体制下で「和平」が再開されても、それは新たな軍事行為と、人口移送のための準備期間になるだけだ。
日本は、今回も資金のねん出先だ。日本時間12月2日、岸田首相はエジプトに335億円、ヨルダンに146億円の財政支援を検討する方針を表明した。
しかしことはそう簡単には進まない。10月7日に今回の事態(7 が始まってから一週間も経っていない12日、英仏独では親パレスチナのデモが禁止され、逮捕者も出た。一方で、同じ日にイギリス政府は、ユダヤ人を守るための資金を拠出することを決めた。
今回の事態は、西側諸国の民主主義に劇的変化をもたらすに違いない。11月5日、アルジャジーラのウエブ版で、イギリス在住のイスラエル人歴史学者であり、シオニストによるパレスチナ人の民族浄化政策の存在を主張する中心人物イラン・パぺが、興味深い分析を行っている。今後、「パレスチナ人に味方する市民社会」が多数出てくる一方で、それらが属する「各国政府がイスラエルを支援し、免責する」状態が起きる。つまり「国民」と「国家」の深刻な分断を予想したのだ。
ガザ地区の人口は約220万人だが、西岸地区にも325万人が存在する(ほか海外等に約900万人)。これらの移管が現実のものとなれば、欧米を中心に治安目的の統制は確実に強化される。シリア難民、ウクライナ問題も解決の糸口さえみえていないのだ。今後、国籍も人権の尊重も、絶対的な意味を失う可能性が高い。
12月10日、国連パレスチナ問題救済事業機関のラザリーニ事務局長は、これまでの展開から考えれば「(ガザの)パレスチナ人のエジプトへ移送が意図されている」と述べ、第一次中東戦争によるパレスチナ人の離散のような事態になる可能性にまで言及した。
※「我々」とは誰か、どんな存在なのか、本文の中では詳述しなかった。
各人がそれを考え、定義することを期待する。
(2023年12月17日記)
(2023年12月18日 掲載)