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南アフリカ、アパルトヘイト撤廃から30年~人種主義と負の遺産を解体するための闘いは続く(その1)

 1994年に南アフリカで初めて全人種参加の選挙が実施されアパルトヘイト(人種隔離)政策が撤廃されてから30年がたちました。しかし、今も人種主義とアパルトヘイトの負の遺産は根深く残っているという声が、"ボーン・フリー(born free[1]"世代の若者たちからも聞こえてきます。

 2024年3月に南アフリカの人権デーおよび国際人種差別撤廃デー[2]にあわせてヨハネスブルグで開催された人権フェスティバルでは、「南アフリカにおける人種主義システムの解体に関するパネルディスカッション」が行われました。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が417日にウェブサイトに公開した記事ではこのパネルディスカッションの内容をはじめ、今日まで続く南アフリカにおける人種主義の根深さとその克服に向けた取り組みについて取り上げています。ニュース・イン・ブリーフとしてこの記事の内容について2回にわけて紹介します。今回はその1回目です。

記事原文(英語)のURL
https://www.ohchr.org/en/stories/2024/04/30-years-south-africa-still-dismantling-racism-and-apartheids-legacy


 レタビレ・ラツォモ(Rethabile Ratsomo)は、南アフリカ社会における自分の "立場"を思い出させてくれるのは些細なことだと言う。

 職場ではB-BBEE(黒人経済強化政策)[3]によって採用されたと認識されているために、仕事をする能力がないとみなされる。同僚からの侮辱的な言葉や軽蔑の眼差しや、嫌味がこもった「英語がうまいね」という〈誉め言葉〉が繰り返し向けられる。日常的なマイクロアグレッションに晒されながら生きることは彼女の人生の一部となってしまった。

「私は"ボーン・フリー"であり、民主化後の南アフリカに生まれたにもかかわらず、南アフリカ人として人種は私の存在に大きな役割を果たし続けています。」

 現在29歳で、反人種差別ネットワーク(Anti-Racism Network)と「アーメッド・カトラダ[4]財団」で働いているラツォモは語る。

「多くの人々が人種差別を普通の行為とみなし続け、有害な行動を存続させています。人種主義は依然として蔓延しています。」

 アパルトヘイト廃止から30年、南アフリカはいまだにその負の遺産と闘っている。教育アクセスへの不平等、不平等な賃金、隔離されたコミュニティ、そして甚大な経済格差が根強く残り、その多くは既存の制度や態度によって強化されている。黒人が大多数を占め、黒人が統治するこの国で、人種主義とそれに伴う差別がこれほどまでに影響力を持ち続けているのはなぜなのか。

 人種主義は、南アフリカの経済、空間、社会の仕組みに深く根ざしている。それは、アパルトヘイトと植民地主義による抑圧と従属の負の遺産を反映している。乗り越えるようと前進はしているが、人種主義をなくすためには、すべての人が自分の役割を果たす必要がある。OHCHR ROSA(南部アフリカ地域事務所)の代表を務めるアビゲイル・ノコ(Abigail Noko)は語る。

「根強い人種主義的で差別的なシステムを解体するためには、人権規範を実施し、不公正への対処と是正、平等を促進するための枠組みを提供する反人種差別政策を導入すること、そしてそれに向けたコミットメント、リーダーシップ、対話、アドボカシーが必要です。」


解放は意識からはじまる

 ツェポ・マドリンゴジ教授(Tshepo Madlingozi、南アフリカ人権委員会委員)は、南アフリカにおいて人種主義のシステムを解体するプロジェクトは、制度レベルでも個人レベルでも、脱植民地化のプロセスと手を携えなければならないという。南アフリカの人権デーおよび国際人種差別撤廃デーにあわせて3月にヨハネスブルグで開催された人権フェスティバルでの、南アフリカにおける人種主義システムの解体に関するパネルディスカッションで、マドリンゴジ教授は次のように語った。

「自分の意識を脱植民地化しない限り、自らが抑圧者の側に立つことになり、他者への抑圧を繰り返してしまうことを歴史は証明しています。」

 OHCHR ROSAが主催したこの討論会では、3人のパネリストが「虹の国[5]」に存在する人種主義を解体し、すべての人に自由、平等、正義をもたらすにはどうすればよいのか、という包括的な問いに対するそれぞれの答えを提示した。

 社会正義と平等を求める20代の活動家であるサムケロ・ムホミ(Samkelo Mkhomi)は、特に若者の間の意識改革が必要であると述べる。彼女は、南アフリカに民主主義が到来した後に生まれた"ボーン・フリー"世代の多くが、他の人種に対して疑心暗鬼になり不信感を抱いていることに気づいたという。ムホミは、すべての白人に対して不信感を抱いているという友人にその理由を尋ねたことがある。その友人は、「白人たちが過去にやったことのせいだ」とこたえた。ムホミは、同世代の仲間たちの間におけるこのような意図的な無理解が上の世代から継承されており、前進を阻む大きな障壁になっているとし、次のように語った。

「私たちは、自分自身の経験以外の家族や社会的経験から受け継いだ認識や固定観念を持っています。そしてそれらを青写真として他者を見てしまっています。若者がそれを取り除くことができれば、人種差別を解消し、前進し始めることができると思います。」

 マドリンゴジ教授は、人種差別をなくすためのひとつの進むべき道として、個々の人種差別的な出来事に焦点を当てるだけでなく、人々に気づきをもたらし人種主義の既存の作用のあり方を解体するような方策を組織のなかで推し進めることを提起する。

「重要なのは、人種主義を永続させる制度や文化を私たちが解体してきたかということです。それを解体できない限り、黒人の人口があっても、黒人の政府であっても人種主義は永続するでしょう。なぜならばそれが制度化された人種主義の本質だからです。もちろん個人の人権、社会正義にも私たちは焦点をあてます。しかし、最も重要なのは、制度化された構造的抑圧なのです。」

(その2)に続く


[1] 1994年のアパルトヘイト体制廃止、民主化以降に育った世代を指す。

[2] 1960321日に起きた「シャープビル虐殺事件」と呼ばれる、アパルトヘイト政策への抗議運動に対して警察隊が発砲し多数の死傷者を出した事件が起き、その犠牲者に対する哀悼の意を表して、1966年の第21回国連総会で国際人種差別撤廃デーとして定められた。南アフリカでは1994年に民主化後初の選挙が行われたときに、人権デーとして国の祝日となった。

[3] The Broad-Based Black Economic Empowerment:南アフリカの経済における黒人の参加の促進と変革を目指す黒人経済強化政策。

[4] アーメッド・カトラダ(Ahmed Kathrada 1929-2017)は、反アパルトヘイトの闘志で故ネルソン・マンデラ元大統領の盟友として知られる。

[5] 南アフリカは人種・文化・言語の多様性から「虹の国」と呼ばれている。アパルトヘイト後の南アフリカを表現するために、デズモンド・ツツ元大主教が提唱し、マンデラ元大統領は94年の就任演説で多民族が共生する虹の国を謳った。

(2024年05月16日 掲載)