1994年に南アフリカで初めて全人種参加の選挙が実施されアパルトヘイト(人種隔離)政策が撤廃されてから30年がたちました。しかし、今も人種主義とアパルトヘイトの負の遺産は根深く残っているという声が、"ボーン・フリー(born free)[1]"世代の若者たちからも聞こえてきます。 2024年3月に南アフリカの人権デーおよび国際人種差別撤廃デー[2]にあわせてヨハネスブルグで開催された人権フェスティバルでは、「南アフリカにおける人種主義システムの解体に関するパネルディスカッション」が行われました。国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)が4月17日にウェブサイトに公開した記事ではこのパネルディスカッションの内容をはじめ、今日まで続く南アフリカにおける人種主義の根深さ、克服に向けた取り組みについて取り上げています。ニュース・イン・ブリーフとしてこの記事の内容について2回にわけて紹介します。今回はその2回目です。 記事原文(英語)のURL |
(その1)から続く
深く残る傷跡
アパルトヘイトの傷跡は深く、隔離、差別、そして不平等の負の遺産を残している。これは南アフリカにおける経済格差の大きさにも裏付けられている。南部アフリカの不平等に関する2022年の世界銀行の報告書は、 "世界で最も不平等な国"という不名誉な称号を南アフリカに与えた。
同報告書は、国の富の80%が人口の10%に集中しているという。そして、最も貧しい層を占めるのは黒人である。報告書は人種(主義)が所得格差の直接の原因であると指摘、「人種的・空間的隔離に根ざした植民地主義とアパルトヘイトの負の遺産は、不平等を強化し続けている」と述べる。
空間的な隔たりは経済的な隔たりを反映している。
アパルトヘイトの悪の巧妙さは人種隔離プロジェクトにあった、とテッサ・ドゥームズ(Tessa Dooms、NGO組織Rivonia Circle理事)はいう。政府は恣意的な分類に基づいて人々を分離することができただけでなく、コミュニティ間に物質的な差異を生み出すことで"人種間の本質的差異(actual racial differences)"という考えを強化することができたからである。ドゥームスは、このような人種による分類は、基本的人権、尊厳、経済的機会をめぐって、異なる人種グループ間で競争しなければならないという考えを助長しているとして次のように語った。
「アパルトヘイト政府は人々に(人種)カテゴリーを与えただけでなく、そのカテゴリーに現実の物質的な意味を与えたのです。この世界において(人種)カテゴリーが実質的な意味を持つ限り、アパルトヘイトをなくし、植民地主義をなくし、脱植民地化するために私たちにはすべきことがあります。」
ドゥームスは、脱植民地化された南アフリカがどのような姿になるのかについて現実的なビジョンを描き、望んでいる結果を具体的に示すことを提起し、また、平等を生み出すためには特権を持つ人々こそが、より多くの努力を担うよう呼びかける。特権を持つ人々が、(平等な)アクセスを広げる努力をしない限り、このサイクルは続くからだ。
「より公正な世界を作ることを、不公正の影響を最も受けている人たちに任せるわけにはいきません。それこそ公平でも公正でもなく、上手くいくことはありません。」
具体的な行動を起こす
アパルトヘイト後の自由への長い道のりを歩んできた南アフリカは、人種差別と闘う世界的な取り組みのリーダーとして、世界的に高い評価を得ている。2001年、南アフリカは「人種主義、人種差別、排外主義および関連の不寛容に反対する世界会議」の開催国となり、そこではダーバン宣言・行動計画が採択された[3]。ダーバン宣言・行動計画(DDPA)はロードマップとして、各国が人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容と闘うための具体的な方策を示している。
DDPAが提示する主要な勧告のひとつは、各国に独自の国内行動計画を策定させることであった。この計画は、各国政府が人種主義とどのように闘うかについての具体的な行程と、行動を起こすというコミットメントを成文化するツールとなる。南アフリカは、OHCHR ROSA(南部アフリカ地域事務所)が技術支援を提供し、2019年に国内行動計画を開始した。OHCHR ROSAの支援は、最終的な計画策定に至るまでの協議への参加や、その実施に向けた支援体制構築への援助、計画に関連するデータ収集のためのシステム開発に向けた調査などの作業に対する支援など、さまざまな形で行われた。
OHCHR ROSA代表のアビゲイル・ノコは語る。
「人権は、歴史的な不正義に対処し是正するための枠組みを提供し、平等を促進し、すべてのひとが公正かつ尊厳をもって扱われることを保障することによって、人種主義を解体するための極めて重要な役割を果たします。」
アパルトヘイトの残滓を取り除くために、他のさまざまなセクターが革新的なアプローチを開拓してきた。B-BBEE[4]や2020年雇用平等改正法案などの企業や政府の多様性プログラムは、職場における多様性と公平性を促進することを目的としている。
アハメド・カトラダ[5]財団のラツォモは、アパルトヘイトを撤廃するためには、このような取り組みや、この国にいまだ存在する根本的な問題に対処するその他の取り組みが鍵になるとし、人種主義、人種差別、そして関連する不寛容について、誰もが学び、発言し、行動しなければならない、と彼女は言う。
「構造的な人種主義を解体するための闘いの最初の一歩は、人種主義に反対の意思を持つだけでは不十分だと理解することです。人種主義に反対するということは、人種主義があらわれるたびに声をあげ、行動することを含みます。人種主義に対する私たちの理解を深めることで、私たちは人種主義が起こったときにそれを特定することができるようになり、声をあげ、行動することができるようになるのです。」
[1] 1994年にアパルトヘイト体制が廃止され、民主化以降に育った世代を指す。
[2] 1960年3月21日に起きた「シャープビル虐殺事件」と呼ばれる、アパルトヘイト政策への抗議運動に対して警察隊が発砲し多数の死傷者を出した事件の犠牲者に対する哀悼の意を表して、1966年の第21回国連総会で国際人種差別撤廃デーとして定められ、南アフリカでは1994年に民主化後初の選挙が行われたときを機に人権デーとして国の祝日として宣言された。
[3] ダーバン宣言・行動計画についてはヒューライツ大阪の資料館「2001年ダーバン会議(反人種主義・差別撤廃世界会議)とその後の動向」に詳しい。 https://www.hurights.or.jp/archives/durban2001/
[4] The Broad-Based Black Economic Empowerment:南アフリカの経済における黒人の参加の促進と変革を目指す黒人経済強化政策。
[5] アーメッド・カトラダ(Ahmed Kathrada 1929-2017)は、反アパルトヘイトの闘志で故ネルソン・マンデラ元大統領の盟友として知られる。
(2024年05月20日 掲載)