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国際人権ひろば No.76(2007年11月発行号)
特集 インドの多様性 -人権の視角から
Part2 ナガランド-知られざる先住民族弾圧
北辺にヒマラヤ山脈をいただく逆三角形の亜大陸 -そうイメージされることの多いインドには、北東部にいびつにせり出した、いわば巾着のような"奥座敷"がある。「七姉妹」とも呼ばれる7つの小州がせめぎ合うこの地域は、三方を中国、ビルマ、バングラデシュに囲まれ、人種的にはコーカソイドとモンゴロイドが交錯する地でもある。
しかしその最奥部で、実に60年余にわたって、先住民族に対する虐殺と弾圧が続いている事実は、世界はおろかインドでさえあまりに知られてはいない。
ナガと呼ばれる人々はなぜこれほどまでに迫害され続けるのか。20万人ともいわれる犠牲者はどのようにして死に追いやられたのか。何より世界は、私たちはなぜこの民族浄化ともいうべき惨状について知らず、放置してしまったのか。語ることを許されなかった人々の物語。そこにはイギリスとインド、ビルマ、そして日本の血塗られた歴史が隠されている。
■英国の暴挙とインドの狂気
インド・ビルマ"国境"の険しい山岳地帯。日本の九州と四国を足したほどのこの地に、推定人口300万人のナガは暮らしている。モンゴロイドに属し、焼き畑と狩猟を営む彼らは、古来より外敵の侵入を拒み、精霊信仰によって独自の文化を育んできた。
19世紀、インドとビルマの植民地化を推し進めるイギリスに対しても、ナガは激しく抵抗した。マスケット銃を装備したイギリス軍に対して、槍や山刀で村を守ろうとする人々。100年に及ぶ戦いでも、イギリスはついにナガの地ナガランドを完全に支配することができないまま、植民地放棄のときを迎える。しかしイギリスは撤退に際し、ナガランドをインド・ビルマへと一方的に割譲した。イギリスが地図上に引いた身勝手な一本の線は、後にインド・ビルマ"国境"としてナガランドを大きく二分するものとなった。
インドとビルマへの強制併合を拒否したナガは、インド独立前夜の1947年8月14日、自らの独立を宣言する。しかし、それが国際的に顧みられることはなかった。ナガはその後もインド総選挙のボイコットや、自主的な住民投票で9割が独立を主張するなど、平和的手段で強制併合への異を唱え続ける。これに対するインドの答えが、大量の軍・警察の派遣による徹底的な武力弾圧だった。「文明的に遅れた人々を支援する」。インド建国の父、ネルーはこの軍事作戦をそう説明した。
■密室に消されたナガの叫び
インド軍はナガランドに近代兵器を持ち込み、ナガのアイデンティティの基盤である村を徹底的に焼き払った。1955年からの3年間だけで645ものナガの村が焼かれ、村人たちはなすすべなく山中へと逃げ込んだ。掃討作戦に怯えてジャングルを逃げまどう生活は続き、戦闘や飢餓、病気などにより、この時期だけで10万人ものナガの命が奪われたといわれている。
やがてナガが組織的な抵抗を始めると、インド軍は"グルーピング(囲い込み)"という戦略をとるようになる。ゲリラ戦で武装抵抗を試みるナガの男たちを村から切り離すため、村を有刺鉄線で囲い込み、完全に軍の監視下におく、というものだった。
そこでは軍による弾圧が日常的に行われた。抵抗する男たちに対して投降を呼び掛けるため、見せしめとしてその家族が拷問にかけられ、悲鳴が連日のように各村一帯に響き渡っていたという。女性に対する性的暴行、繰り返される拷問と虐殺。農作業に出ることさえ許されず、村はおのずと飢餓にあえぎ、体力のない者から順に命を落としていった。
しかし当時のこうした惨状が、世界に伝えられることはほとんどなかった。インドはナガランドを「立ち入り制限地域」として民間人の入域を厳しく制限し、その実情が外部に漏れることを防いでいた。ナガ側はあらゆるルートを通じてイギリス、国連などに窮状を訴え、介入を促す嘆願を続けたが、それらが顧みられることはついになかった。
独立運動の母体となったナガ民族評議会(NNC)の倉庫には、インド軍による弾圧の詳細な記録が今も眠っている。決して聞き届けられることがなかった、ナガの村人たちの悲鳴。それらを「ナガ側の一方的な主張」と切り捨てることはできない。今日に至るまで事実を意図的に隠蔽し続けているのは、他ならぬインド政府自身だからである。
■"合法的"人権弾圧と印緬の蜜月
大国としてのおごりと苛立ちか。埋蔵が期待される地下資源への欲望か。そもそもインド人にとってカースト外のナガは、最初から人間以下なのではないか -あまりに凄惨な状況について、「とても人間の言葉では説明できない」とナガの人々はいまも口を揃える。
1997年、ナガの全武装組織がインド政府との停戦に応じ、以後インド軍による大規模な軍事作戦は影を潜めている。しかしインドによる軍事制圧状態と、にらみ合うナガ独立運動組織という構図は今も変わっていない。市街地や幹線道路にはインド軍兵士があふれ、いたるところに軍事基地が築かれている。ナガランドへは外国人はもちろん、インド人でさえ許可なく立ち入ることはできず、ジャーナリストや人権活動家の自由な取材、調査も許されていない。また、停戦はインド政府が定めた"ナガランド州"内に限られており、それ以外のナガ居住地ではいまもインド軍の軍事作戦が展開されている。
インドによるナガ弾圧の象徴に「国軍特別権限法」という法律がある。インド国軍の士官が治安維持上必要と判断した場合、裁判所の許可を得ずとも、疑わしい人物に対する家宅捜索や尋問はおろか、射殺さえも許されており、その結果について一切罪に問われることはない。"治安維持"という名目で、法律に則って繰り返される人権弾圧。インドの憲法に抵触するとして審議もされているこの悪法は、しかし1958年以来現在にいたるまで半世紀にわたって、ナガの居住地で効力をもち続けている。
またビルマ領サガイン管区にまで広がるナガの居住地では、近年とくにビルマ軍による村への攻撃が激化している。略奪は日常茶飯事と化し、強制労働で多くの村人が駆り出され、異を唱えれば村ごと焼き払われる。停戦前のインド側ナガランドで続いた惨状が、ビルマ側で今まさに繰り返されている。
ビルマの軍事政権に対する国際的な非難が高まる一方で、インドは近年急速に同国との軍事協力関係を強化している。昨年末、インドはビルマに対する軍事訓練と軍事物資の提供に合意。そこには通常の銃火器に加えて迫撃砲や戦車、攻撃用ヘリコプターまでが含まれると伝えられている。その後行われたビルマ軍の作戦では、1000人以上のナガの村人たちが村を追われたと伝えられるが、詳細は今日までわかっていない。
■"白骨街道"の彼方と日本
ナガランドは、実は日本にとって無縁の地ではない。アジア太平洋戦争末期、ビルマを占領した日本軍はインド侵攻をめざして作戦を発動した。補給をまったく顧みない無謀な作戦として悪名高い、インパール作戦である。イギリスでは「史上最悪の陸戦」ともいわれ、日本軍の敗退路は「白骨街道」と化したというこの凄惨な戦闘の主戦場は、他ならぬこのナガの地、ナガランドだった。イギリスと日本の双方から協力を強制されたナガもまた、当然のように多くの犠牲を強いられることになった。しかし戦後独立したインドは日本に対する賠償請求権を放棄。当事者であったナガに対しては何の補償もなされないまま今日に至っている。
戦後、経済発展を遂げた日本はナガを弾圧するインド、ビルマの最大支援国となった。そして一方のナガは、その後もずっと戦禍にあえぎ続けている。私たちが「知らなかった」では済まされない現実が、そこには周到に隠されている。
*筆者はナガ・ピース・ネットワークの世話人としても活躍している。
詳しくは、ナガ・ピース・ネットワーク
http://nagas.sytes.net/~npn