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国際人権ひろば No.76(2007年11月発行号)
国際化と人権
フィリピンの社会運動はなぜ「日比経済連携協定」に反対しているのか?
藤本 伸樹 (ふじもと のぶき) ヒューライツ大阪研究員
■「人の移動」までも含む大型条約
「経済上の連携に関する日本国とフィリピン共和国との協定」(以下、日比経済連携協定)
[1]が2006年9月9日に小泉純一郎首相とグロリア・アロヨ大統領によって署名され、同年12月6日に日本の国会で承認された。02年10月に両国政府間の第1回作業部会が開催され04年11月に大筋合意を経て、「結実」するまでに4年の歳月を要したことになる。
日比経済連携協定(JPEPA)とは、日比間の物品の関税およびその他の制限的通商規則やサービス貿易の障壁の撤廃をはじめ、投資、人の移動の自由化、協力の促進など対象分野の広い協定で、これにより両国の経済的利益の拡大を目的としたものである。同協定は165条と8つの附属書からなり、正文の英語はA4サイズで933ページというボリュームの大型条約だ。
この協定をめぐる交渉が日本のメディアで報道されたとき、「看護師と介護福祉士候補者の受け入れ」についての規定が盛り込まれているということに多大な関心が集まった。何しろ、日本として初めて外国との協定に基づいて労働市場の一部開放という「特例」が導入されるからであった。ときあたかも、日本で看護師、とりわけ介護労働者の人材不足が顕在化していた時期でもあった。
「受け入れ」に対する日本における反応は当初様々であった。看護師や介護労働者の団体は、人材不足の原因は労働環境・条件の悪さにあることから、これを改善することなく労働市場に悪影響を及ぼすような形で、安易な対策として外国人を受け入れることに反対、あるいは条件をつけるという立場をとった。
たとえば、日本看護協会は、表明した見解の中で①日本の看護師国家試験を受験して看護師免許を取得、②安全な看護ケアが実施できるだけの日本語の能力を有する、③日本人看護師と同等以上の条件で雇用、④看護師免許の相互承認は認めない、という4条件を明確に提示したのである。
一方、人材不足に悩む高齢者介護施設など関係者の一部は、受け入れ政策を大歓迎し、素早く準備に着手する団体が首都圏を中心に登場した。人材派遣会社や非営利団体(NPO)などと組んで在日フィリピン人ヘルパー養成講座が次々と開設された。フィリピン人介護士が来日する前に、日本語や日本文化を理解する在日フィリピン人女性(日本人の配偶者や日本人の子どもを扶養する女性)を先導役として養成するという目的であった。
また、日本での就労を目的とした介護士養成施設や日本語クラスがフィリピン各地で開設されるようにもなった。熱いまなざしと期待が日本に向けられた。
この時期は、05年3月に日本へのフィリピン女性エンターテイナーの入国基準が日本政府の人身取引対策によって厳格化され、日本での就労機会が一気に制限されたタイミングとも重なるのだ。それだけに、フィリピン側の関心も、エンターテイナーから看護師・介護士の送り出しへとシフトしていったのである。
■フィリピンで噴出した数々の問題点
同協定は、日本の衆参両院において協定締結について承認を求める審議の際には、与野党から強い異論が出ることなく比較的スムースに審議が進み承認された。しかし、フィリピンでの反応は大きく異なった。しばしばマスメディアのトップニュースになるほどの強力な反対運動が起きたのである。
まず、有害廃棄物問題がその発端となった。有害廃棄物がフィリピンで「処理」される目的で日本から無関税で輸入されるようになるという懸念が一気に高まった。つまり、フィリピンが日本の有害廃棄物の捨て場になるかもしれないという警戒感だ。日比政府間の協定交渉の過程で、伝え聞いた下院の野党議員が05年に比政府に情報開示を求めたものの、「外交上の守秘事項」として公開を拒んだことで、疑惑はさらに高まったのである。日本から輸入される物品の関税削減を示す「フィリピンの表」(関税リスト)に、ヒ素や水銀などを含む残滓、焼却灰、医療廃棄物、下水汚泥などが事細かに記載されていたからだ。
協定の条文が明らかになるにつれ、市民社会も声を上げはじめた。様々な分野で活動する50以上のNGOが集まり「JPEPA批准阻止連合」(MJJC)というネットワークも結成された。有害廃棄物問題に加えて貿易や投資、人の移動(看護師と介護士の送り出し)、国内労働者への影響、経済効果、そしてフィリピン国憲法との整合性などについて次から次へと協定の問題点が「発掘」されていったのである。フィリピンにとっていかに不利な協定であるかということが指摘され、上院議員へのロビー活動や市民への情報提供が始まったのだ。
07年9月中旬から10月上旬にかけて協定に関する上院外交委員会の公聴会が5回開催された。いずれの審議の際にも、政府参考人は協定のメリットを理路整然と説明できなかった一方で、批准に異議を唱えるNGOや学者たちは、与党議員をもうならせるような論点を明快に提示したのである。5回目の公聴会が行われた10月8日、批准に反対する労働者や市民、環境活動家など約3,000人が上院議事堂前に集まった。日本大使館前でも抗議集会が行われた。
それに対して、フィリピン政府は協定のメリットや必要性を集約するために、関係18省庁からなる対策協議会(タスクフォース)を10月上旬に立ち上げて巻き返しを図っている。
そうした事態に陥ったのは、フィリピン政府の「詰めの甘さ」と日本政府の「緻密さ」の結果であるかもしれない。小稿では看護師と介護福祉士の受け入れに関する論点に絞って検証する。
■高いハードルの看護師・介護士の日本への受け入れ
看護師と介護福祉士の受け入れは、「自然人の移動」(第108条~116条)の主要な部分を構成している。最初の2年間の受け入れ数は看護師400人で、介護福祉士600人。来日直後の半年間は日本語研修を受け、その後病院や介護施設で働きながらの研修を通じて知識や技術を習得する。看護師の場合、フィリピンの資格を有する看護師であって、最低3年間の実務経験を有することが条件だ。介護福祉士は、フィリピン政府が認定した介護士(caregiver)であることに加え「4年制大学卒業者」または「看護大学卒業者」という要件が求められている。そして、看護師が3年、介護福祉士の場合は4年以内に日本語による国家試験に合格しなければ帰国させられるというものだ。
このような条件に対して、フィリピン看護師協会は反発しており、「JPEPA批准阻止連合」の中心的・象徴的な団体となっている。協定によって日本での就労という「恩恵」を受けるはずの当事者団体なのに反対声明
[2]を出し、「日比経済連携協定に基づいて日本で仕事をしようとするフィリピン人看護師にとって、不利益が利益をはるかに凌いでいる」と批判しているのである。日本での受け入れ条件には、他の受け入れ国よりも数段高い多くのハードルが築かれているからだという。
日本での受け入れ態勢は、看護師に関していえば日本看護協会の4条件が受入れられた形だ。だが、その実施に際しては、フィリピンからの「研修生」に試験対策の学校に通わせることなく昼夜シフトの仕事を課して、フルタイムの日本人学生にとっても決して容易でない国家試験(看護師試験の合格率は90%前後、介護福祉士は50%前後)の合格を求めているのだ。看護師や介護福祉士という仕事は、人の生命に関わる職種であるだけに、安直な条件での受け入れは危険である。だが、「研修生」への十分な支援体制のないこのスキームは人材養成というには無理がありすぎる。短期間の使い捨て労働力に終わりかねない。現行の問題だらけの「外国人研修生・技能実習生制度」が透けて見えてくる。「経済連携(パートナーシップ)」という名称が空しく響いてくる。
■日比経済連携協定は不平等条約?-米と塩のみを守ったフィリピン
協定は両国の貿易の自由化促進をうたっている。日本政府は協定が発効すると往復貿易額の約94%において関税が撤廃されると説明する。しかし、両国の関税削減を示す「日本の表」と「フィリピンの表」を見比べると、日本の農産物と工業製品に有利になるよう誘導されていることが読み取れる。日本が関税撤廃の除外品目にあげているのはなんと230を超える一方で、フィリピンはわずか2品目に過ぎない。米と塩のみである。
人は米と塩さえあれば何とか食いつなげる。この二つの究極の命の糧を除いて、フィリピンは日本に「市場開放」をした。なんとも切ない話である。この協定は経済的な「強者」と「弱者」との間で交渉された不平等条約だといえまいか。だからこそ、フィリピンの社会運動は、協定批准に反対しているのである。
はたしてフィリピン上院は批准をするのであろうか、それとも否決あるいは政府に再交渉を促すのだろうか。予断を許さない状況だ。(2007年11月4日記)
1.
全文は外務省のサイト http://210.163.22.165/mofaj/gaiko/fta/j_asean/philippines/index.html
2.
Magkaisa Junk JPEPA
http://junkjpepa.blogspot.com/