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国際人権ひろば No.76(2007年11月発行号)
アジア・太平洋の窓
ビルマ(ミャンマー)の民主化運動~軍政を支援してきた日本の責任は
秋元 由紀 (あきもと ゆき) 特定非営利活動法人メコン・ウォッチ ビルマ・プログラム・ディレクター
ビルマでは2007年8月15日に燃料の公定価格が突然大幅に引き上げられ、これに伴い市民の主要な通勤・通学手段であるバスの料金もはね上がった。かねてから食料価格の上昇などへの不満がたまっていたところにこの値上げがきっかけとなり、最大の都市ラングーン(ヤンゴン)でデモ行進が始まった。
僧侶たちがデモをする様子は日本でもよく報道されたが、僧侶たちが歩き始める前、燃料値上げの直後にデモ行進を始めたのは88世代学生グループを中心とした民主化活動家たちだ。同グループのリーダー格の1人、ミンコーナイン氏は1988年の民主化蜂起のときに学生運動指導者だった。政治活動を理由に逮捕され、2004年に釈放されるまで約15年間を獄中で過ごした。自由の身になるとまもなく、同時期に釈放された昔の仲間たちと同グループを結成。政治囚の釈放を求める署名活動などを行い、国内の民主化運動をある程度活性化させていた。燃料値上げはそのような文脈の中で起きた。グループは8月18日からラングーンでデモ行進を開始。デモと言っても、運賃の高騰で市民がバスに乗れなくなったことへの抗議を示すために黙って歩くだけだった。しかし軍政は迅速に報復し、数日後にミンコーナイン氏らを一斉に逮捕した。
この後もほかの活動家たちによるデモが小規模ながら続いた。9月に入ると大勢の僧侶が行進するようになる。抗議行動はビルマ全国に広がり、規模も拡大した。軍政は人々の訴えに耳を傾けるどころか、軍による武力行使に踏み切り、発砲などによる死者が多数出た。数千人と言われる被拘束者の収容状況は劣悪な上、拷問も行われており、収容中に亡くなる人も出ている。デモ参加者の捜索、逮捕は現在も続く。
■日本の反応は遅かった
イギリス、米国、フランス、国連事務総長などは、ミンコーナイン氏らが逮捕された直後の8月22日に軍政を非難したり状況に懸念を表明したりする声明を出した。日本はそれから1ヶ月以上も後、連日数万人が行進するようになっていた9月25日に初めて外務報道官談話を発表した。この時点でデモ参加者に対して発砲こそないが激しい暴力が振るわれているとの情報が多数あったにもかかわらず、軍政を非難する文言は一切なく「...ミャンマー政府が冷静な対応をとることを求める」などとするにとどまった。
治安部隊が発砲し死者が出ると、欧米は元々取っていた制裁措置を強化した。日本政府は10月半ばになって人材開発センター建設への無償資金協力(約5.5億円)を拠出しないことを決めた。大げさに発表されたが、本案件は交換公文が締結されていない、つまり供与が決まってさえいなかった案件だ。経済協力の絞り込みとして持つ効果は微小なものではないかと思われる。実際、10月16日の記者会見で谷口外務副報道官は「日本政府はミャンマーに対して制裁と呼べるような措置を取ることは考えていない」と明言している。
■「凍結」後も続いていた資金提供
ODA大綱は「民主化の促進は...国際社会の安定と発展にとっても益々重要な課題」だとし、援助を行う際は相手国の民主化の促進に十分注意を払うとしている。しかし日本は、国家予算の半分以上を軍事費に当て抑圧政治を行うビルマ軍政に多額の援助を行ってきた。その援助が民主化を促進したとは言えない。
ビルマでは1988年にも今回のような全国規模の抗議行動が起きた。同年にも軍政は軍を動員してデモ参加者への無差別発砲を行い、数千人が死亡したとされる。この弾圧を受け日本政府は新規の円借款(貸付)を凍結することにした。ところが軍政への貸付支出は88年以降も続いてた。87年以降新規円借款の約束はされていないが、支出総額を見ると88年も含め少なくとも96年までは毎年(既往貸付案件への支払いの実行と見られる)600万ドルから4000万ドル以上の供与があったことがわかる。
1990年代半ばに上記方針を若干緩め「民主化及び人権状況の改善を見守りつつ、既往継続案件や民衆に直接裨益する基礎生活分野の案件を中心に」検討することにした。この結果98年には既往継続案件だったヤンゴン国際空港拡張計画に円借款(約25億円)を供与した。2002年には、カレンニー(カヤー)州にあるバルーチャウン第2水力発電所の改修工事に無償資金協力(約6億円)を供与する交換公文を締結した。同発電所はビルマ軍政の支配が完全には及んでいない紛争地域にあるので、周辺には警備のために国軍が展開しており、兵士の食料調達やパトロールに関連して住民に日常的に強制労働をさせている。また発電所周辺に大量の地雷を設置しており、現在も住民や家畜が踏んで毎月のように負傷している。改修工事の実施によって状況が悪化することを懸念した現地や日本のNGOなどが十分な社会影響調査をするよう日本政府に求めたが、そのような調査は行われなかった。
■軍政の翼賛団体への援助
2003年5月に、地方遊説中だったアウンサンスーチー氏の一行をUSDA(連邦団結発展協会)会員らが襲い、氏の支持者ら多数の死傷者が出た。事件を受けて日本政府は援助方針を再修正し、新規の経済協力案件を見合わせ、人道的であるなどの例外規定に該当する案件を「政治情勢を注意深く見守りつつ、案件内容を慎重に吟味した上で順次実施する」とした。それまで通り新規円借款の供与は行われず、無償資金協力の約束額も03年度、04年度は02年度の半分以下だった。ところが05年度は前年度の2倍近くに戻っている。2003年の襲撃事件直後からスーチー氏は再び軟禁され、解放されないまま現在に至る。2004年10月には軍政側とスーチー氏との対話に比較的前向きだとされたキンニュン首相(当時)が突然更迭され、軍政トップ・タンシュエ将軍の独裁はますます強まっているように見えていた。人権状況や民主化の観点からは2005年度に援助額を増やした理由は見えない。
額を増やしただけではない。2005年度の援助の中にはミャンマー母子福祉協会(MMCWA)に対する草の根・人間の安全保障無償資金協力(約730万円)があった。MMCWAはつい最近首相になったテインセイン将軍の妻が会長を務める団体で、夫妻は欧米の対ビルマ制裁対象者に含まれている。翌06年度にはUSDAに対し3件の草の根・人間の安全保障無償資金協力を行った(計約2600万円)。USDAは軍政の民間部門のような団体で、普段から民主化活動家の脅迫や拘束などを行っている。スーチー氏襲撃事件への関与は前述の通りで、最近の抗議行動に際してもデモ参加者への殴打、逮捕に関わっている。欧米はUSDAも制裁の対象にしている。
民主化や人権状況を鑑みて慎重に行うはずなのに改善が見られない中で援助を続けたり、USDAのような軍政にごく近く、民主化活動家の弾圧に加わる団体に援助をすることは、日本政府が軍政の支配を容認、支持している印象を与える。欧米が制裁対象にしている団体に援助を行うのも、ODA大綱に謳われている国際協調の原則に反するだろう。今回発表された人材開発センターへの資金供与取りやめについても、取りやめた理由や、どのような条件が満たされれば供与するのかが明らかにされていない。ビルマ軍政に何をどう伝えているかもわからない。これでは民主化や人権問題に改善がないまま援助を再開した2005年の二の舞にならないかが懸念される。
■おわりに
欧米が制裁措置を取る中、ビルマの近隣国は関与政策を取る。近隣国を中心とした外国政府・企業がビルマの資源を開発、購入し軍政が代金を得るという仕組みができており、軍政が長く続いているのには資源開発からの収入が十分にあるという事情がある。特にエネルギー源を確保しようとしている中国やインドなどにとって天然ガスを始めとした資源を豊富に持つビルマは大切なパートナーなので、制裁措置を取ったり人権状況を非難したりはしない。
日本が軍政に対して厳しい態度を取らないのには、軍政を支える国がいる限り制裁をしても効果が出ず日本が軍政への影響力を失うだけではないかとか、日本の企業がビルマへの進出を控えればビジネスチャンスを中国などに取られてしまうといった懸念もあるのだろう。懸念自体は理解できる。しかしだからといって、平和的なデモを行う自国の市民に発砲するような軍政をなかなか非難せず、むしろ資金提供を続けるのは、民主主義国家として筋を通さないにも程があるのではないか。
援助の全面停止が難しいにしても、実際に行われる援助の供与についてビルマ側に求める具体的な条件を定める、直接供与をしない団体のリストを作成するなどの対策はいくらでも考えられる。また民主化促進を真剣に追求するなら、軍政と共同で人材育成センターを建設するのではなく、日本を含め国外に逃げてきたビルマ人難民の保護を積極的に行う、民主化活動家に教育の機会を与えるといった援助を検討してもよいだろう。
日本政府は、人権状況を改善せず民主化も進めないビルマ軍政に対し多額の援助をしてきたこと、そしてビルマで1988年の悲劇が繰り返され、多数の市民が犠牲となったことを重く受け止めなければならない。これを機に今後の対ビルマ援助の方針や内容を抜本的に見直し、ODA大綱に沿い、民主化の促進を真に支えるような援助を組み立てていくべきではないだろうか。
*注:「 」内の記述についてことわりがないものはODA国別データブック各年度版からの引用。