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国際人権ひろば No.77(2008年01月発行号)
特集・46年目の軍政-ミャンマー(ビルマ)の今を考える Part1
市民デモ弾圧後のビルマ
宇田 有三 (うだ ゆうぞう) フォトジャーナリスト
08年1月1日のヤンゴン
ビルマ(ミャンマー)にて新年を迎えた。もっともこの国の「新年」は4月中旬の「水かけ祭り」の季節だから、1月1日は単なる普通の日の一日に過ぎない。役所も開いているし、商店も通常営業である。町行く人も、もちろん普段通りである。
私は、2006年末から1年間をかけてビルマ全土を歩き回り、この国の実情を自分の目で見てきた。もっとも、ヤンゴン(ラングーン)で抗議デモが最高潮に達した07年9月26日と27日は偶然、ビルマを離れていた。本来なら、そのデモも取材すべきだったが。運悪く、その場には居合わせていなかった。それには説明が必要であろう。
もともと今回のデモの始まりは、07年8月15日の突然の燃料費の値上げだった。値上げをきっかけに19日、「88年世代グループ」
[1]と呼ばれる元学生の活動家たちがヤンゴン市内で抗議の行進を始めた。何か起こるかも知れないと、その行進から数日後の8月半ば、私はビルマに入った。もっともその時のヤンゴンの街は、「88年世代グループ」によるデモ行進が完全に抑え込まれた後だったため、町中に不穏な雰囲気はなかった。ビルマ軍政の象徴でもあるヤンゴン市庁舎やその前に居並ぶトラックの写真を撮るのも、問題なかった。その後9月初旬まで、再びデモが再燃する感じは全くなかった。ここで私は、いったん隣国タイに出た。その際、ビルマを注視しているタイ・バンコクの知り合いに「いや、デモが再び起こる可能性は無いですよ」と自信を持って報告していた。
ビルマ国内では2006年頃から、単独とはいえ、値上げに反対する抗議デモが発生していた。また、停電の多さへの不満の声も今まで以上に上がっていた。だが、それは政治的な行動と言うより、生活苦から出たものであった。例えば、ヤンゴンの食堂で食べる焼きめしは、2003年頃には600チャット(k)
[2]ぐらいだったが、06年の末には1200K前後に跳ね上がっていた。多くのビルマ人がくつろぐ喫茶店のコーヒーは同じように、100Kから200Kと、こちらもほぼ2倍に値上がりしていた。もっとも当局側は、これらの生活苦から発生した抗議デモの拘束者に関しては、日を置かず釈放していた。
僧侶に対する行き過ぎた反応が
流血の惨事となったデモ弾圧直後の2007年9月末、予想に反してビザが下りた。ヤンゴン入国直後は、さすがに町中も緊張していたし、私もいつも以上に神経質になっていた。雨季の生暖かい雨も、緊張のためか冷たさを感じた。
私と同じく、なんとか入国を果たした日本のテレビ局関係者のホテルに当局の関係者が訪れ、国外退去を告げた。彼の滞在はたったの1日であった。誰もが見張られている。私も、毎日が緊張の連続であった。いつホテルの部屋がノックされるか、気が気ではなかった。
デモの中心地の一つであったスーレー・パゴダ(仏塔)前には、さすがに人影はなかった。ヤンゴンの中心地には、兵士や武装警官の姿も目立った。街を歩く外国人観光客の姿は激減している。デモ当時の事情を聞こうと、面会の約束を取りつけた日本政府関係者や援助関係者からは後日、会うことを断られた。もし取材者と接触したことが当局に知れることを恐れているのであろう。
私が知りたかったのは、いったん沈静化していたデモがなぜ再燃したか、ということだった。7年ほど付き合いのあるビルマ人にその理由を聞いてみた。彼は、喫茶店で声を潜めて説明してくれた。
「デモのビデオを見たかい。お坊さんが兵士に向かって跪き、手を合わせてたんだよ。あべこべだろ、本当は、我われの方が僧侶に手を合わせるはずなのに」。
早速私は、ホテルに戻り、録画していた衛星放送『アルジャジーラ』を繰り返し見てみた。確かに僧侶が2人、武装警官の前に跪いて手を合わせ、懇願している。別の場面では、無抵抗の僧侶に対する過剰な鎮圧の様子も見られる。後日判明したのだが、僧侶に手を出すのを拒否した兵士たちの何人かは、隣国タイに逃げ込んだ、という。
私の個人的な感触だが、今回の抗議デモの再燃の大きな原因は、僧侶に対する行き過ぎた反応が、市民の不満に火をつけたのではないかと推測している。もともと、日常生活への不満がくすぶっていたところに、値上げ・僧侶への暴力が続き、一気に火を噴いたようだ。また、今回のデモの特徴の一つが、これまでならヤンゴンから地方に広がったデモが 地方からヤンゴンへと飛び火したことであろう。政治的な抗議運動はこれまで、歴史的にヤンゴンから起こっていたのだ。
軍政は88年のデモの教訓から、反政府運動の担い手である学生たちがヤンゴン市内でデモを起こさないよう、大学を郊外に移していた。今回のデモの発生で、今後、軍政に対する抗議デモは、いついかなる時も、どこででも発生するかも知れない。軍の監視は、これまで以上に強まる怖れがある。
では、なぜ、僧侶に対する暴力に歯止めがかからなかったのだろう。「政府は、危機を感じたら、市民だろうが僧侶だろうが無差別に弾圧するんだよ。これが軍事政権の正体だ」。ビルマ人の知人はそう語る。
私はその時、彼の説明以上のことを想像していた。もしかしたら、ビルマでは犯罪や暴力がこれまで以上に蔓延し始めているのではないか、と。特に、2003年5月に起こった「ディペイン(虐殺)事件」
[3]では、約70名の死者を出したという。だが、その詳細は未だに不明で、何が起こったのかは闇に葬り去られた。ディペイン市の街道でアウンサンスーチー氏を襲った軍の翼賛団体USDA(連邦団結発展協会)への取り締まりは皆無で、逆にUSDAはその後、勢力をのばした。市民を抑える前線に立つ武装警官や兵士は、政府に反対する者に対しては何をやっても許されるという気分を持っているのでないか。07年8月末、そのディペインの町に行ってみた。5分もしないうちに私服の公安が飛んできた。その速さに、さすがに驚いた。
緊張する市民デモ弾圧直後の町の様子
デモ直後のヤンゴンを歩いてみる。スーレー・パゴダ(仏塔)から歩いて北へ向かう。アノヤタ通りの交差点に近づくと、警官や私服の公安関係者が道行く人のカバンの中をチェックしている。もちろん、カメラやビデオが入っていないか検査しているのだ。私はきびすを返してその場を離れた。
デモが広がったもう一つの地点、シュエダゴン・パゴダまでタクシーに乗る。タクシー料金は1200チャット(K)。デモが起こる前は1000Kだったから、それほど値上げはしていない。
「自分のもうけを減らしているんだ。値上げしてたらそれこそお客がいなくなるから」。タクシーの運転手はそうぼやく。確かに人びとの生活は苦しいようだ。だが、ヤンゴン市民には、経済的にとことん追い詰められるまで、まだ「のりしろ」があるように感じた。シュエダゴン・パゴダに近づく。カバンからカメラを出そうとすると、運転手は'NO PHOTO'ときつい口調で私を制止する。小雨降る中、汚れたタクシーの窓を通して、外からタクシーの中をはっきりと見ることはできない。それでも運転手は恐れている。私は言われるまま、カメラを収めた。
フレイダンの交差点に行ってみた。ヤンゴン大学の近く、学生や若者が多い地区だ。雨の中を歩き回ってみる。市場に近い私設の塾では、人が溢れていた。ここでは、抗議デモの余韻を想像させる緊張した雰囲気は全くない。抗議デモへの参加者とそうでない人びとが、完全に2分されているようだ。
歩き疲れた。路上に警戒中の兵士がいる中、エアコンのきく喫茶店に入る。店内には、衛星放送が流れていた。ちょうど画面には、数日前に起こった僧侶と市民の抗議デモを放映していた。インターネットは遮断されているが、衛星放送を見ることができるのだ。市民や僧侶を抑え込んだ兵士や武装警官は、店のすぐ外にいるのだ。何かその現実に違和感を覚えてしまう。店内の客たちは放送に見入っている。その様子をそっと撮影したところ、隣に座っていた男性が、「カメラは危険だよ。ほら」って、外にいる兵士へと目配せした。
1. 1988年の民主化要求運動を先導した元学生たちのグループ。同年3月、学生を中心にネウィン政権(当時)に対して民主化求める運動が高まり、7月にネウィン将軍はすべての公職から退いたが、9月に軍がクーデターにより政権を掌握し弾圧、1000人以上(3000人とも)の死者がでた。弾圧を逃れ国内に脱出したものも多く、国内外にネットワークを持つグループ。
2. チャットの公定レートは2007年3月現在、1ドル6K(チャット)だが、実勢レートで1ドル1250K程度。
3. アウンサンスーチー氏が03年5月30日に地方遊説のためディペイン市を訪問した際、軍政を支持するUSDA(連邦団結発展協会)の暴徒に襲われ、約70名の死者が出た事件。アウンサンスーチー氏はそのまま当局に拘束され、今日までの約12年間、自宅軟禁されることとなった。