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国際人権ひろば No.80(2008年07月発行号)
特集・発効した障害者権利条約 Part 3
原則インクルーシブ教育へ-障害者権利条約と教育
崔 栄繁(さい たかのり) DPI(障害者インターナショナル)日本会議
障害者権利条約 教育条項の交渉過程
障害者権利条約(以下、条約)の交渉過程において、最も議論になったテーマの一つが「教育」であった。各国の制度の違いもさることながら、障害者・関連団体で、障害の種別などによって考え方等が千差万別のためである。特に大きな問題になったのは、普通学校・学級(一般教育制度)で教育を行うべきなのか、視覚障害者やろう者のためには特別な教育環境が必要なのかということであった。
まず、教育条項に関する交渉過程を簡単に見てみたい。2003年に開催された第2回特別委員会(Ad Hoc Committee)での決議を受けて2004年1月に開催された作業部会(Working Group)において、国連の特別委員会として最初の条約草案である作業部会草案が作成された。草案17条2項の(a)では「障害のあるすべての人が、自己の属する地域社会において、インクルーシブでアクセス可能な教育を選択することができること」とあり、いわゆる「選択権の保障」の水準であった。この項目に関するコメントには、障害のある学生がニーズを十分に満たされていない普通学校に行く義務を作り上げるものではない、と記されている。
この作業部会草案について、第3回から第6回までの特別委員会で議論をし、その議論をもとに、議長草案と修正議長草案が出された。ここで、教育に関する条項は24条となり、現在の条約成文の内容と形式に近づいてきたのである。
第24条の内容
条約の教育条項である24条でのキーワードは、まさに「インクルージョン」「インクルーシブ」である。これは、作業部会草案から議長草案に変わる際に、「選択権」から「原則インクルーシブ」へ、軸が大きく動いたことを意味する。
まず、同条1項で「あらゆる段階におけるインクルーシブな教育制度」を締約国は確保すると規定している。これは、教育の様々な段階で、障害のある子どももない子どもも一緒に学習できることを意味している。2項(b)では、自分の住む地域でインクルーシブな教育が受けられること、同項(c)では、個人の必要に応じた「合理的配慮」を行うことを求めている。合理的配慮とは、過度な負担がない限り、障害者が障害のない人と実質的に平等に全ての権利を行使し、享受できるための、特定の場合の変更や調整のことである。条約の非差別平等の原則から、実質的な機会の均等を保障するための新たな概念であり、重要なことは、権利条約では合理的配慮が行われないことは「差別」と規定したのである(2条)。
さらに、同項の(e)では、個別化された支援が必要な場合、要するに分離された環境での教育が必要な場合は「完全なインクルージョンという目的に即して」行われるとしている。「完全なインクルージョン」とは、普通学校の一緒の学級で、障害のある子もない子も一緒に学習したり過ごしたりするという意味で、欧米で使われている言葉である。原則インクルーシブ教育が条約の求めるものなのである。
一方で、24条3項ではその(b)で、手話の習得とろう社会の言語的なアイデンティティの促進という規定があり、(c)で、 盲、ろう又は盲ろうの人(特に子ども)の教育が、その個人にとって最も適切な言語並びにコミュニケーションの形態及び手段でされるべきともある。特に手話は言語の一部と定義された関係もあり(2条)、手話による教育が保障されなければならない。
日本の現状
では、日本の障害児の教育政策はどのような状況なのだろうか。一言で「原則分離」教育体制である。障害のある子どもは障害のない子どもと基本的に分離され、盲・ろう・養護学校に通っていた。最近、特別支援学校となり「特別支援教育制度」に変わったが、根本的に全く原則分離制度のままである。
まず、基本的に障害のある子の学籍が自分の住む地域の普通学校にはない。学校教育法施行令5条により、地域の自治体は障害のない子どもには就学通知を出し、障害の程度を規定している同施行令22条3項に該当する障害児には就学通知は出さないため、原則として分離された環境である特別支援学校に行くことになる。同22条の3に該当する障害児のうち、普通学校に行く「認定就学児」はあくまでも例外である。普通学校では、個別の障害に対する配慮がほとんどなく、実質的に特別支援学校に行かざるを得ない。普通学校に行くためには、親や支援者が介助するなど、条件をつけることがほとんどであり、各地で大きな問題を起こしている。特に合理的配慮違反を「障害に基づく差別」とする条約の規定は、こうした現状を許容しない。
学校の決定に関しても、教育委員会の下にある就学指導のための委員会が障害のある子どもの進路を決定する。学校教育法の改正で親の意向聴取は法律に定められたが、学校保健法等でその意向が反映される仕組みになっていない。
原則インクルーシブ教育に向けて
条約の原則の一つに「社会への完全且つ効果的な参加及びインクルージョン」(3条(c))がある。世界のあらゆる国で、障害者は、障害のない人と分けられてきた。住む場所、いる場所、学校、職場。その根底には、「障害」は個人的な問題であり、克服すべきであるという障害の「医学モデル」の考え方がある。これにより、障害者は専門家の主導のもとでのリハビリテーションと訓練の対象、福祉と慈善の対象としてのみ扱われ、障害のない人に認められている権利の行使も制限されてきた。
条約は、こうした状況とその根底にある障害の「医学モデル」の変更を迫っている。「障害」とは、個人の機能上の障害と社会の環境との関係から、社会参加を妨げる障壁のことを含むもの(前文、1条)とし、障害の「社会モデル」を採用している。社会参加の障壁は社会環境との関係で生じるのであり、障害者の権利の保障のためには社会の側が障壁を除去すべきなのである。「インクルージョン」とは、排除(イクスクルージョン)の反対語であり、障害者を排除してきた社会が障害者をありのままに全てを受け入れる、という意味である。ありのままに生まれた地域で学校に行き、生活できるようにするために、社会の側が変わることを条約は求めているのである。
こうした条約に基づいて、教育についても変えるべき制度はたくさんある。以下、何点かあげてみたい。
まず、「学籍」があげられる。学籍は原則として生まれ育った地域の普通学校におき、本人などが強く希望した場合には例外として特別支援学校への通学を認める、というのが、原則インクルーシブな制度にふさわしい。学校教育法施行令5条や22条の3の改廃が具体的にあげられる。また、教育委員会の下に置かれている就学指導の委員会を廃止することである。原則インクルーシブ教育制度の下では、障害児のみを対象としたそのような委員会は必要ない。さらに、普通学校で障害のある子どもが学べるように、その個人が必要なニードに対して、権利としての配慮を行う制度作りが至急求められる。くり返しになるが、条約上、合理的配慮を行わないことは差別になるのである。
そして、長い間、日本のろう学校では口話教育が行われてきた。手話の使用が禁止された時期も長かった。これこそ、ろう者を「ろう」ではない人に近づけるという意味で、障害の「医学モデル」の発現であろう。手話を習う権利、ろう児同士集団で学べる権利が尊重される制度を確立する必要がある。
「分離」は決して差異を尊重する社会作りに役立たない。日本では現在でも多くの人が、入所施設で生活し、精神病院では地域生活の資源があれば退院可能とされる社会的入院といわれる精神障害者が数多く存在しているが、その根本には障害者への無知や偏見がある。義務教育という実質的な人生の入り口で分けられた人たちが、共に地域で生活し共に働くことが困難であることは、長い間の分離教育制度が証明しているのではないだろうか。条約の成立はこうした状況を変革する千載一遇の機会である。インクルーシブ教育はインクルーシブな社会づくりの基礎なのである。