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国際人権ひろば No.81(2008年09月発行号)

特集・世界人権宣言60周年によせて Part 2

世界人権宣言を実現するための、私たちの役割とは

川村 暁雄(かわむら あきお) 
チュラロンコン大学アジア研究所客員研究員

「当たり前」のことを「当たり前」にする難しさ


 人権とは、「人が人間らしく暮らすために当たり前に持つことができる権利」だという。たしかに、世界人権宣言を読めばそのことはよくわかる。たとえば、「差別を受けない権利(2条)」、「奴隷にされない権利(4条)」、「プライバシーを守られる権利(12条)」、「小学校で無償の教育を受ける権利(26条)」、「結社の自由(20条)」、「平等の参政権(21条)」、そして「救済を得られる権利(8条)」。貧しさのために小学校に行けなければ、この社会でどれほど弱い立場になることか。高利貸しに借りたお金の返済のために、自由を奪われ強制労働を強いられる暮らしに、尊厳はないだろう。30条からなる世界人権宣言が列挙している権利は、どれもそれが欠ければ安心して生きていくことが難しいものばかりだ。
 さて、60年たって「私たちが当たり前に実現を求めることができるはずの権利」は、本当に当たり前になったのだろうか。  日本の中では、大きな進歩があったことは間違いない。戦後の憲法は、司法の独立や言論の自由を保障し、女性の選挙権も実現した。民主主義に基づく制度が生まれ、当初は多数派の中に埋もれていた少数派の声も、粘り強い運動によって次第に政策や法律に反映され、より多くの人の人権が保障されるようにもなってきた。憲法で保障された教育や基本的な福祉の発展は、経済的な発展にもつながった。もちろん、課題も多い。とりわけ「人権教育(26条)」や「救済」の面においては遅れている。「救済なくして権利なし」という言葉があるように、人権は本来「当たり前に要求できるもの」であってはじめて十分に実現が可能となる。だが、自分の人権が要求できるものであることや、他者の人権実現の要求を尊重する必要があることを教えられることは少なく、実際にそれを可能とする司法や人権救済制度も貧弱だ。このため、少数派は常に苦しんできたし、このままだとその状況は続きそうだ。日本での人権実現に向けての大きな課題である。


「権利と自由を守る社会秩序」を得るためには


 だが、世界をひろく見わたしてみると、はるかに多くの課題が残っている。私たちが当たり前だと思うことの多くが実現できていない人々も多い。発展途上国では3人に1人の子どもが、餓えのために低体重となっているが、とりわけ南アジアでは、その割合は半分に近い。小学校に行けない子どもは減っているが、サハラ以南のアフリカでは、いまだに3人に1人が学校に行けない。貧困は、それ自体が「経済的、社会的及び文化的権利を実現する権利(22条)」が奪われている状態であると同時に、さまざまな人権侵害の結果でもある。しばしば、貧困は特定の地域や民族、社会階層にかたよる。その裏に、特定の集団への力と富の集中があることも多い。力と富を持つ側は、それを用いて自分たちの特権を守る。日本でも貧しい側は自らの権利を守ることは難しい。司法制度などの権利保障のための制度が弱く、政治参加も許されないところで、弱い立場にある人が権利を現実のものとすることはさらに困難だ。
 世界人権宣言は、「権利と自由が守られる社会秩序や国際秩序」を得る権利がすべての人にあるという(28条)。だが、この権利ほど実現が難しいものはないかもしれない。日本の経験もそのことを証明している。戦前の日本にも、人権獲得に向けての動きはあったが、結局失敗し、超国家主義に走っていった。戦後、新憲法の下で権利と自由を守るための最低限の制度を得て、さらに土地改革や財閥解体により権力の集中を廃すことにより、なんとか人権実現への歩みを開始できた。残念ながら、戦後の人権の進展は、日本社会の自らの力だけで生み出されたものでも、自然の歴史発展の流れの中で生み出されたものでもない。
 世界の多くの国も同様の状況にある。だからこそ、人権は、国際協力を通じて実現していく必要がある。国連憲章第1条で、国連の目的として「人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成する」ことが掲げられているのは、まさにこのためだろう。
 だが、この理念は、国際社会の中にはなかなか根付かなかった。むしろ現実には国家中心の「力の論理」「お金もうけの論理」が優先されていった。冷戦期には、東西陣営が自陣営の支持者の確保を優先し、それぞれの国の人権にはさほど関心は払われなかった。その後のグローバル化の時代には、お金の論理が優先され、途上国の貧困層はますます厳しい立場におかれていく。「人権の無視及び軽侮が、人類の良心を踏みにじつた野蛮行為をもたらし(宣言前文)」たことを反省したはずの国際社会だったが、のど元過ぎればなんとやら。個々の国の利益追求はもとより、世界銀行や国際通貨基金など世界の発展に貢献するはずの機関も、発展途上国に医療や教育予算の削減を求める「構造調整政策」を要求、人々の生活に苦しみをもたらしてきた。


世界は変わるか...可能性と落とし穴


 しかし、この世界も少しずつ変化してきている。現状では、よい動きもあれば、悪い変化もありそうだ。
 好ましい変化としては、次のことが上げられる。

1. 民主化が進み、人権条約の批准も進んだこと
  民主主義は拡がった。人権条約の批准国も増えている。発展途上国の中でも人権の実現を要求する声が高まっている。
2. 国連の中で人権が中心に置かれていること
  1997年以降、国連の中で人権の主流化が進み、開発や平和維持、人道支援などのすべての国連活動の中で人権(社会権も自由権も含む)を中心に据えるという方針が生まれた。これは、人権基盤型の開発につながっている。

3. 多くの先進工業国も貧困問題の解決や人権実現を中心に考え始めたこと
  多くの先進工業国が世界の貧困問題の解決に関心を払い始め、ミレニアム開発目標に合意した。人権、良い統治など人権を実現する社会秩序への関心も高まっている。公式には、世界銀行やIMFも貧困削減の重要さを認めた。

4. 貧困問題を人権問題ととらえる国際的な運動が生まれつつある


 国際協力NGOから人権団体、途上国の市民団体などもふくめ、貧困問題を人権問題ととらえ、問題解決を求める国際的なネットワークが生まれつつある。
 悪い変化としては、次のような点があるだろう。

1. テロとの戦い
   テロとの戦いは、冷戦のように人々を「敵」「味方」にわける。人権を損なう政府であっても、テロと闘えば支援を得ることができる。

2. 資源争い
  石油など天然資源獲得競争が激しくなり、人権を守るかどうかはそっちのけになっている。

3. 先進工業国も途上国政府も本気ではないこと
   日本の経験からもわかるが、人権を実現するためには法律を作るだけでは不十分だ。例えば、多くの途上国は、大土地所有による格差に苦しんでいる。こうした問題を解決するためには十分な財政的支援と途上国政府の意思が必要だが、どちらも十分ではない。


日本の役割はどこに?


 これからの世界がどちらの方向に動いていくのだろうか。その中で日本はどのような役割を果たすべきなのか。
 日本の憲法は、高らかに「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認している。私たちは、このことをもっと真剣に考えるべきだと思う。人権の守られる世界をつくることは、私たちが確認した理念であり、私たち自身の平和と人権の実現のためにも重要なことのはずだ。そして、日本社会には人権を実現するために何が必要なのかを示す材料も、何がまずいのかを示す素材も両方ある。真摯に自らの社会をふりかえり、その経験と失敗を伝え、人権のための社会変革を支援する。それが、世界人権宣言を実現するための私たちの役割なのではないのだろうか。