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国際人権ひろば No.82(2008年11月発行号)
人権の潮流 Part 2
スポーツと人権
吉川 康夫(よしかわ やすお)
帝塚山学院大学 人間文化学部教授
裏側で醸成されるもの
今夏の北京オリンピックは、始まる前からチベットをめぐる動きが大きく報道され、政治がらみのきな臭い雰囲気を漂わせていた。だが、いざ始まるとそんなことをすべて忘れたかのような競技中心の放送になり、どの局もいつものオリンピック同様にメダル、メダルと叫んでいたように思われた。
メダルを獲得したアスリートは確かに立派なものだ。それは重々認めるけれども、それを過大に喧伝されれば、その裏側でメダルに達しなかったアスリートは駄目だったという思いを醸成しないだろうか。オリンピックに大騒ぎするのは、それ以外のスポーツを軽視する思いを醸成しないだろうか。このように裏側で醸成されるものが筆者には気になって仕方がない。
というのも、筆者にはスポーツに長らく抱いていた一つの疑問があって、それは、多くの競技スポーツが常に相手や相手チームの弱点を探し、それを突くことに汲々としているところがあるが、そうしたスポーツが育む道徳的心性はどのようなものなのか、というものだった。そして、近代スポーツがルールの範囲内であれば、どんなプレーも許され、ときには反則すれすれのプレーでさえ賞賛されるのは、資本主義社会における法律の枠内での自由競争とパラレルだという研究を知って、その疑問が氷解した経験がある。同様に、近代スポーツが内包する男性優位主義は西洋近代を作った男性たち特有の人間観を反映したものであるという研究も数多くある。好きでやっていたラグビーのつもりだったが、そういう考えのもとに整備されたスポーツだったというわけだ。
オリンピック憲章の言葉
オリンピックの種目も、近年つけ加えられた幾つかを除けば、そのほとんどが近代スポーツだ。しかも、それに出場するには自らの肉体を限界まで酷使するような練習を要求される大会であり、文字通り世界のトップ・アスリートたちのための競技会だ。だが、そのオリンピックの憲法ともいうべきオリンピック憲章で、スポーツを行うことは人権だと謳われていることは一般にはあまり知られていない。2007年版でのそれは、憲章の前文に続く「オリンピズムの根本原則」の第4項に示されていて、「スポーツを行うことは一つの人権である。すべての人が、いかなる差別もなく、オリンピック精神に則って、スポーツを行うことができるのでなければならず、そのオリンピック精神とは、友情・連帯・フェアプレイの精神に基づく相互理解を求めるものである。(以下略)」という文言になっている。
だが、現代の世界において、スポーツを人権と見なしている国がどれほどあるのだろうか。すべての人がスポーツを行うことができている国などあるのだろうか。どの社会だって生活に追われてスポーツどころではない人々がいる現実を思うと、オリンピックがエリート・スポーツの粋を競う大会であるだけに、こうした言葉は白々しくさえ感じられる。
では、オリンピック憲章は綺麗事を述べているだけであって、単に「建前と本音」を使い分けているだけなのだろうか。オリンピックを取り巻く政治や経済の動きを思うとそうも言いたくなりそうだが、必ずしもそうではないと筆者は考えている。そして「建前と本音」というよりは、「理想と現実」という言葉の方が相応しいと思っている。
西洋近代が立てた諸理想
合衆国の独立宣言(1776年)が高らかに自由・平等・幸福の追求を基本的人権と見なしたにもかかわらず、その人権とは白人たちのそれでしかなかったことは、リンカーンの奴隷解放宣言(1862年)に至るまでにも100年近くかかり、更にその100年後の1960年代前半に公民権運動が展開された過程を想起すれば明らかだ。しかしこの道程には、当初は白人たちの人権ではあっても、それをすべての人々に押し広げていこうとする確かな歩みを見て取ることもできる。そうした理想が正しかったからとは思わない。それらの理想に与する人々が様々な形で尽力し、その実現をめざしてきたからだ。こうした理想を何とか社会に定着させていくには実に長期にわたる紆余曲折があり、多大な犠牲を払うことにもなったのは歴史の示す通りだ。
もちろん、現代においてもすべての人々に保障されているとはとても言い難いし、それ故に様々な取り組みが行われている。だが、ここまで至りえたのも私たちの社会の誇りではないだろうか。筆者はときに思うのだが、どういう家に生まれるかでその人生が概ね決定されていた中世の人々にとって、平等とか人権とかいう考えなど理解を越えていたのではないか。だが、西洋近代にそういう考えが生み出され、そしてそれに与する人々が種々様々に取り組む中で、次第に社会に定着させていった。それに反する人々もいて、それに棹さす動きもある中で、そうした理念を共有する人々によって支えられ育てられてきたのだと思う。
スポーツと人権
ところがスポーツはどうか。スポーツはその娯楽性の故に、問いに付されることが少なく、それを大切に育んでいく心性も生じにくい。ルールは決まっているし、そういうスポーツを楽しんでやるかやらないかだけの話のように思えるからだ。常に相手の弱点を探しているような競技スポーツがいやなら、自己記録の向上をめざす陸上をやればいいし、少しでも記録を上げようと汲々とするのがいやなら、ジョギングを楽しめばいい、となって、個々人の楽しみの世界と見なされがちだ。そのため、ややもすると、スポーツ界は「男性中心主義の最後の砦」とさえ言われ、しごきや体罰がまかり通ったり、セクハラまがいの言動が散見されたり、場合によれば人権を蔑ろにする空気を生み出しかねない。そして、それがいやならやめればいいと言われてしまいそうだ。
だが、現代社会では、スポーツはますます大きな社会的地位を占めるに至っている。オリンピックが政治や経済と密接に結びついた巨大イベントであるのは周知の事実だし、例えばオリンピックの内幕を告発したシムソンとジェニングズの『黒い輪』などに、政治家や企業がスポーツを食い物にしている現状が赤裸々に示されている。マスメディアに占めるスポーツの割合もかなりなものだ。しかもマスメディアの取り上げ方は一部のスポーツに偏重しているし、男らしさ・女らしさの視点が色濃く混入している事実も指摘されている。子どもたちへの教育的効果も無視し得ない。明治以降の学校体育が軍国主義と結びつき、それに適った「身体」を作り出す役目を果たしたという研究もあって、話は決して個人の好き嫌いの問題には留まらないはずだ。
人権意識が現在に至るまでには先人たちの実に多大な苦労や尽力があり、現在でもその努力が継承されている。だが、スポーツを人権として確立させていこうというのはこれからの課題であるように思える。体育とスポーツを人権と見なしたユネスコの国際体育・スポーツ憲章が1978年だったのに対し、IOCがそれをオリンピック憲章に取り入れたのは16年後の1994年の100周年会議においてだった。スポーツを利権や消費の対象にしてしまう勢力もあれば、スポーツ・フォア・オールというこの考えに基づき、スポーツを一つの人権とすることによってスポーツを私たちの手に取り戻そうと努力している人々もいる。そしてその動きは徐々に広がりつつある。この理想をいかに社会に定着させていけるか、この理想に与して、それへ向かって尽力していけるか、それは自由や平等をすべての人々に押し広げていくために戦ってきた先人たちと同様の戦いだと筆者は考えている。