紛争地の現場から日本社会に問う Part2
2009年2月、地上波キー局の名の知れたニュース番組の記者から、東京大学が招聘し、私もそれに関わっていた、世界的に知られたガザの専門家をインタビューしたい」、という連絡が入った。後から担当者が、学生時代の5年ほど前に私の講演に参加していたことが解ったが、その研究者のプライベートな映像を条件付けて来るなど、来日直前になってメデイアの都合を振りかざしたので、結局取材は断った。
中東問題で顕著な報道のレベル低下を食い止めるために、たった一人の個人でも、ことさら大学生を中心に可能な限り時間を共にしてきた。その中にいるのであろう将来のジャーナリストに、自らの仕事を考える上での「対案」を提示したいと考えてのことであったが、最近、こうした世代の組織ジャーナリストが時折コンタクトして来るようになった。
事態の拡大と複雑化、から、中東報道には、更なる技術力と状況理解が不可欠になっている。一方、約3年間で任地を変わらねばならない体制、危険と思われる地域での取材が許されない会社の事情、保守化などから、組織ジャーナリストは、こうした難易度の高い取材への対応力を失ってしまう環境に置かれるという皮肉な状況にあり、良心的な記者は苦悶している。
そんな中、2008年末に始まったイスラエルによるガザへの軍事侵攻時のメデイアの状況について、「メデイアの敗北」という声も聞かれた。しかしながら、日本人記者が、侵攻時のガザにいたとしても、満足な取材は出来なかったのではないか。例えば東京新聞の田原牧氏は、以下のように書いている。田原氏の報道は高く評価をしてきたし、一記事でそれが変わるものではないが、このコメントは哀しく映った。
「戦争は巨大な事件だ。だから、記者たちは本能的に群がる。拙(つたな)い経験からでも、この手の取材では現場に立ち、送稿の段取りが整えば、仕事の七割は終わったも同然だ」注。
家庭を失った家族の仮設住居
(09年2月、ガザ北部にて)
砲弾を抱える少年
(09年2月、ガザ地区南部のエジプト国境地帯にて)
もはや、ジャーナリストの求める「現場」などない。現地の人の証言だけに頼る事実確認は、著しく正確性を欠く。イラク戦争の例で言えば、例えばアメリカ政治の動きを掴む、あるいは政治家の失言からそれを推測する、などして「俯瞰図」を理解しておかなければ、戦争時以外は動けない。
また、仮に戦時に現場取材をしたからといって、戦争の実像は何も伝えられないとうのが実際のところだ。激戦区にはまず近づけないし、戦争の全体像の理解もなしに行われる取材に、事象を証明できる力はない。日本のメデイアが、すぐに満足なイラク報道を行えなくなったことからも、それは否定しようがないだろう。
パレスチナで言えば、2000年9月に始まった第二次インティファーダ(民衆蜂起)時の破壊と、今回の攻撃による被害との区別ができ、または事後確認の技術を持つ者さえ、世界的にもほとんどいない、と言わざるをえないのが現状だ。
だから、事前・事後に現地に足繁く通い、なるべく問題が集約されたエリアに限定した事前取材を重ねることも、併せて重要になる。状況の変化から事の本質を推論できるだけの備えを持っておくということだ。
「テロリズム」、「原理主義」等の定義付けを怠ったことが、ガザ報道があれほど稚拙なものになったもう一つの要因である。今回決定的だったのは、報道から「軍事占領」という要素がほぼ抜け落ちていたことだ。既存の「占領」という定義が当てはまりにくいにしても、経済的にガザを完全に封じ込められることから解るように、イスラエルによるガザの「実効支配」を抜きに事態を語るのは不可能である。
東京23区の約6割の面積のガザをイメージする時、「小さな沖縄」という捉え方をするのが最も分かり易いのではないか。周囲を海とイスラエルとの境界で囲まれていて、かつ制海権も制空権もイスラエルによって掌握されているガザは、イスラエルの承諾なしには外部との物理的な接触を持つことは不可能であった。そこにイスラエル軍が配備され、ガザ内部の土地を収用しながらイスラエルの「民間人」さえ住んでいたというのが、2005年までの状況だ。南部にあるエジプトとの国境も、イスラエルが管理していた時期が長く、少なくともパレスチナ人の自由にはならずにきた。その状態で、イスラエルの許可を受けてイスラエルでいわゆる3K仕事に従事したり、イスラエル軍が管轄している工業団地での就労が、ガザの経済を支えてきた。逆に言えば、イスラエルに逆らえば、失業率が一瞬にして跳ね上がり、ガザの経済は破綻した。
2005年にガザからイスラエルの「民間人」と軍は去ったが、その分、ガザの封鎖はさらに強化された。イスラエルからはもとより、エジプトからガザへの援助物資の搬入でさえ、イスラエル側との調整なしでは行えないというのが一般的な見方だ。結局、「食糧」に代表される生活必需品的な援助か、それさえないか、ということになる。
軍隊を賛美する広告パネル
(09年5月、アメリカ・アトランタ空港にて)
「援助」によって食べることはできても、決して経済的に自立できない構造は2005年以降さらに鮮明になった。イスラエルの占領を支える国際社会の援助という構造を、前述したガザについての政治経済学の世界的権威サラ・ロイは、2009年3月、日本で、以下のように指摘している。
「イスラエルだけでなく国際社会までもが、援助を、(都合の悪い動きに対する)制裁を加えるための武器として使い始めた」。
同じ路線の中で成立している以上、国連関係の援助機関や、援助活動を行うNGOでさえ、同様の位置づけと言える。イスラエルによる軍事統治が固定化した中で、例えば食糧援助を続ければ、それはガザの経済基盤を更に破壊することになる。占領について明確に反対しないで、イスラエルと協調路線を取る日本政府と、日本を代表するNGOも、確実に距離を縮めてきた。「人殺しは止めろ」と言いながら、イスラエルがいつでもガザを侵攻できる状況を、NGOがあまり強調しないのは滑稽だ。
「破壊」した責任を、イスラエルは今回も問われることはないようだ。国際社会による「復興」も含めてガザに投入される資金は、確実にイスラエル経済を潤すことになる。パレスチナにとって最大の輸入先が、イスラエルであるからだ。
最後に、フリー・ジャーナリストの状況が、組織ジャーナリスト以上に酷いということを触れておきたい。特定のNGO等と結びついて、あたかもそれらの「広告代理店」のようになってしまってさえいる。勿論、資金もなく技術力も低い。ただ、人々の「不幸」を嘆き、事実かどうか一定の確認が取れているかも怪しい「コメント」が並べられているだけの場合が多い。
日本そのものが現場でもある。現場を整理し、意味づけごとに対処しなければ、報道がより一層形骸化するのは確実だ。
注.東京新聞2009年2月16日付朝刊解説面「メディア観望・現場を踏ませよ」より
編集注:連続セミナーの第2回「パレスチナ報道の現場から」は、本稿筆者の小田切さんに加えて、藤原亮司さん(フォトジャーナリスト・ジャパンプレス所属)に報告をしていただきました。藤原さんは本誌No.61(2005年5月号)で「パレスチナ自治区・ガザで暮らす人々のいま」を執筆していただいています(https://www.hurights.or.jp/archives/newsletter/section2/2005/05/post-177.html)。