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国際人権ひろば No.86(2009年07月発行号)
人権さまざま
「肩書き」がものをいう社会
白石 理 (しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所長
「心で見なければものはよく見えない。大切なものは目には見えないんだ」 『星の王子様』22章
私は、「(財)アジア・太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)所長」という立派な肩書きをいただいている。私が実際に立派な仕事をしているかどうかとは関係がない。事情を知る人には、言わずもがなのこと。ほこりが出ること請け合いである。
かつて、国連の高官に聞いた話である。日本を訪問したとき、趣味が高じて書きつづけ数カ国語に翻訳されていた「人気の小説」シリーズを日本語で出版したいが世話をしてくれないかと国連の仕事で知り合った協力者に頼んでみた。この協力者は日本では周りから尊敬されている大変立派な人だったそうである。「一晩その本を貸してください。明日話しましょう」と言って別れた翌日、その人は、期待に胸膨らませていた国連の高官に、「貴方のような肩書きと地位の方が、こんなものを書いているとは、真に残念。もっと本来の大切な仕事に打ち込んでほしい」と、自慢の「人気小説」を素っ気なく返したそうである。ここでは肩書きにふさわしい振る舞いが期待されたのであろう。
日本社会では、名刺が大変重要である。名刺には普通その人が属する会社、組織、団体と肩書が明記されている。初めて会う相手とはまず話を始める前に名刺の交換をして、お互いの素性を確かめ、自分と相手の関係を勘案する。敬語を最大限に使うべきかどうか、頭をどのくらい下げてお辞儀をすべきかどうか、どの程度の交渉ができるか、など相手の肩書を見て決めることになる。これは洋の東西を問わずどこにでもあることであるが、日本社会ではそれが精緻の極みにまで達しているといってもよいであろう。
私は、さきほど述べた「立派な肩書き」の名刺のほかに、私の名前だけを刷った名刺を持っている。この名刺は、私の名前を憶えてもらうのに苦労する外国では便利であっても、日本ではあまり歓迎されない。これを貰った人は本来あるはずの情報がないので大変困るのである。所属は、肩書きは、と質問される。
それでは肩書きのない人はどうするのか。ただの一市民である。しかし、この「ただの一市民」というところが大切である。地位も、特権も、勲章もない、ただの一市民を立派な地位と肩書きを持つ人と同じように大切にするのは、民主主義社会の基盤である。人権の理念は、世界人権宣言にあるように「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認すること」を求める。憲法第15条では普通選挙の権利が保障され、選挙人の資格は「人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない」(第44条)とある。民主主義と人権の基盤は同じということである。
封建制のもとでは肩書きがものを言った。身分にはそれぞれ細かく肩書きがついており、それで人間関係や社会関係が規制された。支配するものと支配されるものが肩書き(身分)ではっきり分かれていた。明治憲法の下で選挙制度ができたとき、一定の税金を納める男子にしか選挙資格が認められないということもあった。「財産、収入のある者」も「男子」もここでは肩書きということができよう。60年前に制定された憲法の下での制度は違う。肩書きは関係ない。「すべて人は平等でかけがえのない存在である」という原則に拠っている。
肩書きに頼ることに慣れてしまうとつい人を肩書きで判断してしまい勝ちである。「住所不定、無職」という肩書きは職探しを大変難しくする。「フリーター」も肩書きとして付いて回る。お見合い結婚の世話をする仲人は「つりあい」を考えて相手を選ぼうとする。家柄、親の社会的地位、収入、財産、など、など、など。「かっこいい」も肩書きのうちか。結婚相手としてふさわしい相手は「何とか大学卒業、何とか会社のどういう地位にある人」と細かい注文をつけられることもあるという。戒名にも肩書きがあるという。格式にこだわって、「故人の生前の社会的地位にふさわしい」戒名を付けるのである。考えてみれば、社会にはまだ同じような肩書き依存があると思う。そして多くの場合、肩書きにこだわる人は、そこに潜む問題を意識していないのではなかろうか。
近年、「人を大切に」ということばをしばしば聞くようになった。ある企業のホームページに「わが社は、『人を大切に』をモットーにして社会に貢献しています」と立派な宣言があった。ある自治体は「市民一人ひとりの人権が尊重され、心豊かでいきがいのある社会の実現をめざす」と宣言する。「市民一人ひとり」のなかには勿論、外国籍の人もホームレスの人も、派遣切りで生活のめどが立たない人も含むということであろう。「人を大切に」、世界人権宣言と日本国憲法が掲げるこの原則は、人をうわべだけで見る肩書き偏重の社会の推進ではなく、「いつでも、どこでも、一人ひとりの人に」実現されることを求めている。