ヒューライツ大阪は
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国際人権ひろば No.88(2009年11月発行号)
特集:「移住」の視点からみる韓国・済州島スタディツアー Part5
3回の韓国スタディツアーを契機として
号外版:「済州島スタディツアー2009」(8月25日~8月28日)の感想文
済州島との「出会い」
大阪で暮らし始めてかれこれ15年になるが、兵庫県に生まれ育った「関西人」でありながら、たまたまとはいえ、私にとって大阪はかつて近くて遠い「異郷」であった。高校を卒業するとこれといった志望校もないまま大学受験浪人となり、東京に直行したのである。しばらく兄や友人のアパートに転がり込む居候生活を出発点に、幾年にもわたる海外放浪生活を始めるまでのあいだ、気がつけば東京で15年近くを過ごした。大阪は帰省の際に電車で通過するていどの薄いつながりに過ぎなかった。
東京にいるあいだ、アジア諸国に幾度かバックパッカ―で旅を繰り返していた。しかし、私は韓国にはついぞ行ったことがなかった。学校では詳しく教わらなかった日本の植民地支配、子どもの頃に感じた日本の大人たちの「朝鮮人」に対する差別的なまなざしとそれを受け継いだ子どもどうしの会話、日本男性による「キーセン旅行」、差別されまいと日本名を使っていた在日韓国・朝鮮人の友人たちが大学生になると民族名を使い始めたときの驚きなど。それらを想い起せば気が重くなり、とても単なる好奇心や冒険心だけで、韓国を旅する気持ちになれなかったのである。
それほどまでに縁遠かった時期に、一度だけ大阪と韓国との接点を体験したことがある。1985年の外国人登録証の大量切り替え期を頂点とした在日韓国・朝鮮人をはじめとする在日外国人による指紋押捺拒否運動が盛り上がっていたときだった。東京のNGOが1泊2日の現地集合・解散で企画した「猪飼野スタディツアー」に参加したのである。私は、新幹線料金を節約するため、夜行列車を乗り継いで東京から大阪までやってきて、待ち合わせ場所である民営化前の「国鉄大阪環状線」の鶴橋駅の改札口に向かった。私は車中で、金賛汀さんが著した『異邦人は君が代丸に乗って-朝鮮人街猪飼野の形成史』(岩波新書)をにわか勉強のために読んでいた。
その短いツアーで、在日の青年たちと夜半まで交流する機会を得て、大阪には済州島出身者が多いこと、なぜ指紋押捺拒否をしているのか、日本という国からいかに管理や監視、そして排除されているかなどについて話を聞いた。当時の鶴橋かいわいは、いまのようなシャッター商店街ではなく、露天市場ではキムチや豚足が所狭しと並んでいた。いわゆるヘップ・サンダル(オードリ・ヘップバーンが映画の中で履いていたようなヒールの高いサンダル)を製造する町工場がたくさんあり、作業場を見学させてもらった。
近くに感じるようになった韓国
時が流れた。残念ながら、日本による歴史の清算は終わっていない。それでも、在日韓国・朝鮮人が多く暮らす大阪で暮らすようになったこと、出張で韓国に幾度か足を運ぶようになったことなどから、私の韓国との精神的な距離は以前に比べるとうんと近くなった。さまざまな領域で、日本と韓国は同様の課題に直面するようになっている。途上国からの移住者・移住労働者の受け入れがそのひとつである。
そうした状況を受けて、ヒューライツ大阪として、とりわけ権利が侵害されやすい女性の移住者・移住労働者の人権課題をとっかかりに、07年から韓国スタディツアー、および日韓交流シンポジウムなどを企画してきたのである。そして、3年目にあたる2009年のツアーは大阪と密接につながる済州への旅を実施したのであった。
今回のツアーを通じて、20数年前に東京から大阪の鶴橋を訪ねて間接的に韓国、そして済州島と出会っていた私にとって、ひとつの原点を振り返る機会にもなったのである。
第1回目のツアーのテーマは「よりによって国際結婚」
実は、初回にあたる07年の「移住女性の人権と多文化共生を考える」
1というテーマのツアーは、当時の私の感想文「韓国でうろたえながら考えた国際結婚」
2で記しているが、正直なところ仕事でなければ素通りしたかったところである。なぜならば、途上国から国際結婚で移住してきた女性の人権がそのテーマの柱であったのだが、国際結婚は私にとって苦くて心の痛むテーマだったからだ。
その当時でいえば、9年近く前にフィリピン人女性との結婚が破綻し、物心もついていない幼いひとり娘とともにある日突然去られてしまい、そのショックとあとに続く喪失感の日々を経験していたからである。それゆえ、国際結婚をめぐる課題について、長いあいだ距離を置いてきたという経緯があった。ツアーに際して、大げさにいえば、もう避けてはいられない、と腹をくくるほかなかった。第2回目の08年も同様のテーマのツアーで、都市部を離れて地方へ向かった。
「異邦人」は「のぞみ」に乗ってやってきた
なんという運命のいたずらなのか。済州島スタディツアーを準備している09年7月中旬のこと。その生き別れになった娘から私にいきなり電話があり、離婚した妻がこれ以上養育できないという理由で、娘と私の意志に関わりなく私のもとにいきなり戻されることになったと告げられたのである。他に何の選択肢も浮かばなかったことから、受け入れる覚悟だけは即座に固めた。しかし、気持ちの準備をする間もなく、娘はほどなく東京から新幹線に乗って大阪にやってきたのである。
私の前から突如いなくなった11年前の娘はまだ赤ちゃん状態だったのだが、日比間を幾度か往復した後に「戻ってきた」ときはすでに中学校3年生。幼少時から長年にわたる別離ゆえ、私と一緒に暮らしたという記憶が全くないという。それに加えて、異なった環境で暮らしていただけに、さまざまなやりとりは異文化コミュニケーションそのものという生活が始まったのである。父と子のたった二人だけとはいえ、いきなり形成された「多文化家族」。そこでの生活は、互いに理解し合えないゆえに音をあげそうなほど多難な日々である。
親子間の共生を紡ぐことと、多文化共生社会を構築することは次元の異なる道筋であろう。とはいえ、互いに認め合い尊重し合うことに向けた「衝突」や「寛容」という営みを避けては通れないことについては相通じるのではなかろうか。力まずに実践していくことがその推進力になると信じたい。
1.
https://www.hurights.or.jp/japan/projects/2007/08/-2007-8185.html
2.
https://www.hurights.or.jp/japan/projects/2007/08/post-837.html