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国際人権ひろば No.88(2009年11月発行号)

特集:「移住」の視点からみる韓国・済州島スタディツアー Part5

「4・3事件」について思うこと

号外版:「済州島スタディツアー2009」(8月25日~8月28日)の感想文

吉田邦彦
北海道大学・法学研究科教員

1.済州島の空港に着いた我々は、まずは、海女博物館のそばの「巻貝粥」の昼食会場に向かったが、(歓声とともに)そこで見たエメラルドグリーンの海の美しさを誰しも忘れないであろう。私の済州訪問は、今回が3回目であったが、全行程に亘りこれほど美しい天気に恵まれたのは、初めてであった。しかし私が今回自分に課した課題は、いわゆる「4・3事件」について少しでも理解を深め、この自然豊かな「観光の島・済州島」で、何故にかくも陰惨な悲劇が起きてしまったのかという「人間社会の闇」に向き合い、自分の専門の民法に引き寄せつつその問題の打開策を少しでも探ることであった。この課題の遂行は、あまりにも大きく、忙しさにかまけて進捗していないが、とはいえ感想文の締め切りも迫るので、不十分を承知の上で、雑文をつづらせていただく。


2.私がここ10年あまり「補償問題」について遅まきながら勉強を進めている1のも、本来は、強制連行とか非人道的殺戮など集団的不法行為に対する責任問題ないしそれに対する救済方法について、最も先端的に研究しなければならない分野(民法の重要分野たる不法行為法)を専門としているのに、実はほとんど手つかずの状況であるというパラドックスに対する「驚き」ないし「自己批判」からであった。
 そして、対応に戸惑うまでの悲劇「4・3事件」について、私自身が多少なりとも理解を深めたのは、ごく最近のことで、文京洙教授の著作及びNHKのETV特集2によってであった(特に、上記問題意識との関連で、これに対する故盧武鉉元大統領の補償問題解決の要諦を押さえた謝罪の名スピーチには、感銘を受けていた3)。その意味で、短期間の滞在ではあったが、今回の訪問においては、前回行けなかった「4.3平和公園」を訪ね、詳細な展示物を配置する「4・3平和記念館」をゆっくり見学できたのは何よりであったし、済州大学では、この分野のパイオニア的な研究者の高昌?(コウチャンフン)教授と親しく話をすることもできたし、帰り間際に尋ねた「4・3研究所」では、金(キム)昌(チャン)厚(フ)理事(金東日ハルモニに関する『自由を求めて』(ソンイン出版、2008)の著者)が、(筆者のうっとうしい法学的な質問に対して)見事に手際よく対応してくださったまた、及川ひろ絵さん(済州4・3研究所編(許榮善著)・済州4・3(民主化運動記念事業会、2006)の訳者)が同席してくださった。これらすべての皆さんに感謝申し上げる。

4.3平和記念館
4.3平和記念館

3.限られたスペースなので、以下箇条書き的に、この悲劇の処理に関する、私の問題意識ないし疑問点を列挙しておこう。第1に、それまで共同体的意識が強いとされたこの島でどうしてかくも残酷な殺戮が起きたのか、ということは未だもって私には謎である。確かに当時は、冷戦構造の最先端として、朝鮮戦争が起きたわけでその縮図的なものが本島で起きたと言われればその通りであろうが、例えば、焦土化作戦などは、想像できない「集団的狂気」であろう。また、「西青(ソチョン)(西北青年団)」のような野蛮なよそ者が島民を殺戮したという側面も無視できないだろう。しかし、涙ながらに親族の悲劇を語ってくださった、我々の名バスガイドの趙榮林さんが、「濃密な共同体ほど、殺戮も残酷になるのです」という言葉は、深くかつ重く、私の想像力を遥かに超えるものであった。
 もう少し、不法行為の責任問題に即してのこととして、第2に、前述のように盧武鉉元大統領の謝罪は優れたものであったが、それで、加害者の責任問題は解決されたのかという問題があろう。こうした非人道行為の後始末ないしその関係修復には、加害者側の責任の真摯な承認が不可欠なのであるが、本当になされているのか。この悲劇の背景として、当時の親日派を基盤とする軍政支配の構造があるが、その構造は今なお承継されており、果たしてそれが清算されているのか(例えば、殺戮の指示リーダー朴珍景(パクチンギョン)中佐の銅像があったりするのである)、ということである(この点は、金時鐘氏も鋭く指摘する4)。これは日本の政治家などにも通ずる構造的問題であろう。
 また第3に、この間、2000年の特別法にも目を通してみたが、被害者への救済策として、基本的に損害賠償(その意味での補償)が盛り込まれていない(医療費の例外的一部負担に止まる)。被害者の多さとか、類似例への波及など実際上の考慮は分かるが、理論的には、積極的に踏み出されるべきものであろう。さらにこれに関連して、第4に、本法律の「被害者」の定義は、1947年3月1日から1954年9月21日までの死亡者、後遺症ある者に限っていて(同法2条参照)、狭すぎないか。また、共産主義者なども除かれているようで、そうした人がいくら惨殺されても、平和公園の慰霊の碑には記されないとのことである。しかし、ゲリラ側の過責の度合いは、軍政側のそれとは、異質であり、小さなものであって、やはり常識的感覚に反することは、しばしば引く(本事件に翻弄される人生を辿った)金東日ハルモニの精神的痛みが慰謝されない帰結を考えてみても、再考を要するのではないか。
 さらに第5に、アメリカ政府の共同不法行為責任を今後とも考えていく必要があろうし、この点でわが国のような条約上の障害はないのではないか(この点で、記念館を歩いていたら、数年前ハーバード・イェンチン研究所滞在時に親しくお世話になったE・ベイカー教授が、スクリーン上、同旨を説いていたのは、懐かしくかつ心強く思う次第であった)5


4.以上で、「4・3事件」に関する雑駁な感想の列挙を終えるが、高教授との別れしなに、「済州島も北海道も悲劇の島だ。今後とも平和教育の提携を深めていきましょう」と言われたのが印象的であるが、我々の投宿したホテル『貴賓パークホテル』は、同教授が1978年にKCIAに追尾されながら、「4・3事件」の嚆矢的研究を始められた場所であるとのことだし、ガイドの趙さんは、高教授の教え子とのことであって、私はここに不思議な運命の糸のようなものを感じた。

1.そのささやかな成果といて、吉田邦彦・多文化時代と所有・居住福祉・補償問題(有斐閣、2006)第6章以下参照。
2.文京洙・済州島4・3事件――「島のくに」の死と再生の物語(平凡社、2008)182頁以下(とくに前大統領スピーチは、210-211頁参照)。また、金東日ハルモニの人生に即したNHK「(ETV特集)悲劇の島チェジュ――『4・3事件』在日コリアンの記録」(2008年4月27日放映)も有益であった。
3.これについては、吉田邦彦「日韓補償問題と民法(3・完)」書斎の窓577号(2008)13頁でも触れた。
4.金石範=金時鐘(文京洙編)・なぜ書きつづけてきたかなぜ沈黙してきたか――済州島4・3事件の記憶と文学(平凡社、2001)170頁、175頁、177頁参照。
5.なお、前記高教授も、ハーバード大学会議でのペーパーで、「第3」「第5」について、同旨を説かれている(See, Ko Chang Hoon, US Government Resposibility in Jeju April Uprising and Grand Massacre: Islanders' Perspective(2003)15-16)。