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国際人権ひろば No.88(2009年11月発行号)
特集:「移住」の視点からみる韓国・済州島スタディツアー Part2
現場で学ぶ「済州島」
飛田 雄一 (ひだ ゆういち)
(財)神戸学生青年センター館長
ヒューライツ大阪と(財)神戸学生青年センター
1との初めての共同企画で、済州島スタディツアーを実施した。総勢30名の有意義かつ楽しいスタディツアーであった。
神戸学生青年センターは「平和・人権・環境・アジア」をキーワードに1972年から活動をしている市民団体である。朝鮮史セミナーの歴史も古いが、国内、国外のフィールドワークも実施している。
センターは、二日目の「4・3事件」および旧日本軍施設のフィールドワークと最終日の観光を担当した。
済州島といえば「4・3事件」がよく知られている。金石範(キム・ソクポム)さんはこの事件の関連で、日本に逃げてきた人々からの証言をもとに多くの作品を書かれている。
『火山島』が有名だが、私は初期の作品の『烏の死』『万徳幽霊奇譚』がとくに素晴らしいと思う。また立命館大学教員の文京洙(ムン・ギョンス)さんの努力に負うところの多い
金石範・金時鐘(キム・シジョン)『なぜ書きつづけてきたか・なぜ沈黙してきたか―済州島四・三事件の記憶と文学』も必読の書である。
「事件」は実に朝鮮戦争をはさんで1954年9月まで続いたのである。日本軍が作った軍事施設が「4・3」の時に人民虐殺の現場になったという話など本当に私たち日本人には辛い話である。
歩いて学んだ「4・3事件」
スタディツアーの二日目、まず4・3平和公園を訪問した。韓国では長く独裁政権のもとで「4・3事件」は「アカ」の暴動であるとされてきたが、
多くの人々の努力によって民主政権の成立後の2000年1月、「済州四・三事件真相糾明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」によって関係者の名誉回復がなされたのである。
そして2003年10月31日、当時の盧武鉉大統領が公式に謝罪を行ったのである。「特別法」によって被害認定、名誉回復、調査報告書発行等が行われたが、
いまも済州飛行場付近などでの遺骨発掘調査も行われているのである。
4・3平和公園は、広い敷地の中に記念館、慰霊塔、追悼の広場などがある。公園の入口には、「事件」をテーマにした多くの詩が石に刻まれている。
記念館の展示も非常に体系的で充実している。冒頭の展示「済州4・3事件 とは」は、次のようにあった。
「1947年3月1日、警察の発砲事件を起点として、警察・西北青年会の弾圧に対する抵抗と単独選挙・単独政府反対を旗じるしに1948年4月3日南朝鮮労働党済州島党武装隊が武装蜂起して以降、
1954年9月21日漢拏山禁足地域が全面解放される時まで済州島において発生した武装隊と討伐隊間の武装衝突と、討伐隊の鎮圧過程に数多くの住民が犠牲となった事件である」。
私たちは、記念館の職員から日本語による丁寧な解説を伺うことができた。その後、多くの名前が刻まれた慰霊塔を訪ねたのである。
そこには村落ごとに犠牲者の名前があるが、引き続き新たに判明した犠牲者の名前が付け加えられている。
「4・3平和公園」内にて(筆者撮影)
日本軍の基地跡を訪ねる
4・3平和公園ののち訪問したのは、島の南西部にある「カマオルム平和博物館」だ。ここはアジア・太平洋戦争当時、日本軍が駐屯していた坑道陣地で、現在もそのまま残されている。
まったく私立の施設で、維持のために李英根(イ・ヨングン)館長が多大な支出をされているようだ。もちろんこの陣地の建設には多くの朝鮮人労働者が動員されている。
安全上の問題で公開されているのはその一部であるが、私たちは充分にその「地下要塞」を体感することができた。李英根館長がお忙しいなか記念館と要塞跡をご案内くださった。
カマオルム博物館から更に南下して、次に私たちは「アルトル飛行場跡」に向かった。島の南西部に位置する大静地域にあるが、島内では比較的平坦な地域である。
給水塔跡に登ると飛行場跡全体を見渡すことができる。この飛行場は1937年の南京爆撃の時にも利用されたものだ。「渡洋爆撃」の一号機は長崎の大村飛行場から出たが、
飛行距離が能力いっぱいであったようだ。その後の爆撃にはこのアルトル飛行場が利用されたのである。塔の上からは飛行機の格納庫もいくつか見える。
破壊した方が農業に具合がいいが、堅牢にできていて壊せないとも伺った。一部は、農業用の倉庫にも利用されている。
格納庫のすぐ近所に「4・3事件」の虐殺地「ソダルオルム」もあった。石碑とともにその地を囲むように追慕の道が作られている。
朝鮮戦争のさなか1950年にモスルポ警察署管内で344名が「予備検束」されていたが、この場所で7月から8月にかけて虐殺されたのである。
現地の掲示版には、「法的手続なく集団虐殺し暗埋葬した悲劇の現場である」とあった。ちょうど私たちが訪問した8月26日の午前10時から、
「59周忌慰霊祭」が開かれていたようで、大きな垂れ幕がそのまま残されていた。多くの人が集まり59年前のことを思い起こしていたであろう。
飛行場の近くの松岳山は海に面した風光明媚な山だが、調査活動をされた塚崎昌之さんによるとこの山は日本軍の塹壕などでまさに穴だらけの状態だという。
今回、その地下壕、塹壕をめぐることはできなかったが、南側の海に面した洞窟を訪問した。ここはイ・ヨンエの出演した「大長今」(チャングムの誓い)のロケ地のひとつでもあり、
大きな看板も設置されている。ドラマでこの洞窟は、島流しされたイ・ヨンエが初めて妊婦の手術をする場所だが、その洞窟が日本軍に作られたのだから、時代考証的にはおかしな話だがまあいいだろう。
当時の日本軍は沖縄戦ののちに済州島で地上戦が行なわれると考えて島の南に特攻基地などの軍事施設がつくられたのである。ここの洞窟は、
「震洋」という特攻用のモーターボートの格納庫としてつくられたようだ。洞窟は先のカマオルムの洞窟に比べたら更に「未完成」で、アジア・太平洋戦争末期の日本軍の「あわてぶり」を
あらわしているようにも思えた。
特攻用のモーターボート「震洋」の格納庫としてつくられた洞窟(筆者撮影)
肌で感じた済州島
最終日には、飛行機の時間まで済州島観光をした。この間、親身になって案内してくださった現地ガイドの趙栄林(チョウ・ヨンリム)さんが、ユーモアを交えて済州島のことをいろいろ教えてくださった。
ガイドである以上に私たちの仲間として行動してくれたことに感謝している。
済州島の始祖、高、梁、夫が現れた「三姓穴」を訪ねたし、滝が海に直接落下する素晴らしい景観の正房瀑布、そこで海女さん直営の屋台で鮑を食べながら歌のサービスもうけた。
城邑民俗村では、そこにお住まいのボランティアガイド・許成子(ホ・ソンジャ)さんの名調子も忘れられない。島の東側の日出峰にもがんばって登った。
火山の島・済州島がつくった巨大な自然洞窟「万丈窟」にも入ることができた。そして全員無事に、済州空港からそれぞれの飛行場に飛び立ったのである。
いまも世界の各地で「戦争」が続いている。スタディツアーでは済州島の過去・現在をみつめることができた。現場に学ぶことの大切さは近年特に強調されているが、
私たちは済州島をめぐりながら多くのことを学ぶことができた。改めて「戦争」と「平和」について深く考えさせてくれるいい機会となった。またこのような企画をつくっていきたいと思う。
1.ウエブサイトは、
http://ksyc.jp/