人権さまざま
最近スイスのジュネーブで、死刑廃止のための世界会議が開かれた。(2010年2月24-26日)第4回目のこの会議には、約1000人の参加者があったという。開催国のスイスの外務大臣、ヨーロッパ連合の議長国スペインの首相などが加わり、現地のメディアは会議の様子を詳しく報道した。日本のメディアは、折りしもジュネーブで開かれていた人種差別撤廃委員会の日本政府報告書の審査を簡単に伝えたが、死刑廃止のための世界会議が注目されることはなかったようである。
日本では死刑廃止は要注意の話題であるという。それは、国民の80%以上が死刑存続を支持しているという事情にあるのだそうである。そういえばかつて、人権問題に理解のある人から「死刑が人権問題だというのは納得できない」といわれたことがある。
世界の現状を統計で見てみよう。2009年末で死刑を廃止した国が104、10年以上死刑を停止している国が35となっており、合計139カ国が死刑を止めている。死刑廃止を定める市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)の第二選択議定書の批准国が、2007年62カ国から 2010 年には72カ国に増えたことにこの動きが顕著に表れている。
死刑を廃止もしくは停止している国の中には、アジアからは中央アジアの諸国、太平洋諸国、フィリピン、ラオス、ネパール、カンボジア、ブルネイ、ミヤンマー(ビルマ)、スリランカ、韓国などがこれに名を連ねる。
これに対して、死刑制度を維持し、処刑をしている国は 58 カ国である。この中には中国、インド、朝鮮民主主義人民共和国、日本、シンガポール、マレーシア、インドネシア、ヴェトナム、台湾のほか南アジア、中東諸国が名を連ねる。「先進国」で死刑を執行しているのは、アメリカ合衆国と日本だけであることはよく知られている。ヨーロッパ諸国中、死刑制度を維持、執行しているのはベラルーシのみであり、ラテンアメリカ諸国は全部が死刑廃止、アフリカでも死刑廃止国が増えているという。アムネスティ・インターナショナルの2008年の統計によると、死刑を維持している国58カ国のうち、2008年には、52カ国で8,864名が死刑判決を受け、25カ国で少なくとも 2,390 名が死刑を執行されたという。なかでも中国が飛びぬけて多く、7,003名が死刑判決を受け、1,718名が処刑されている。日本では、27名が死刑判決を受け、15名が処刑されている。
国連総会は2008年と2009年、死刑制度を維持する国に対して、死刑停止を勧告する決議を採択した。
死刑は国が法の定めによって人の命(いのち)を奪うことである。かつて裁判で使われ、有名になった「一人の命は全地球よりも重い」ということばを引くまでもなく、法律によれば自由に人の命を奪ってよいというものではない。「最も重大な犯罪についてのみ科することができる」と自由権規約は定める。
国によっては、犯罪者に対する応報刑を定めるものがある。俗に「目には目を、歯には歯を」といわれるものである。端的にいえば、殺人犯を処刑することによってはじめて正義が実現される。また、昔からの伝統として処刑の仕方まで定めている国もある。死刑の理由も国によって多岐にわたる。女性の不倫が死刑の理由になった時代はそれほど昔のことではない。今でも不倫を犯したとされる女性が死刑判決を受けるニュースに接することがある。
それでは、日本で死刑存続が支持される理由は何だろうか。人の命を残忍に奪ったことに対する償いは死刑以外にないという考えがあるという。「このようないたいけな子どもを殺すような者は、人ではない、殺人鬼である。こんなものに人権を認めることはない」という意見もきく。山口県光市の母子殺害事件の弁護団に対してなされた攻撃や嫌がらせは、その一例である。
犯罪者も生きている人である限り人権を尊重されるはずである。冤罪で処刑されても失われた命は取り返せない。また殺人犯を処刑して「正義を実現する」としても、犠牲者の命が戻ってくるわけではない。一人の命が奪われたことに対してもう一つの命を奪うことで社会も被害者の家族も納得するのであろうか。この考えと昔のかたき討ちの考えに相通ずるものがあると感じるのは私だけであろうか。
生まれながらにして人が持つ人権は法律で与えたり奪ったりできるものではない。ましてや、世論が圧倒的に支持するから死刑は存続させるということにはならないはずである。民主主義の多数決でも人権を奪うことはできないのである。
かつて、「休暇」という日本の映画をみた。死刑に立ち会う刑務官の話である。ある刑務官の経験をもとに作られたという。そこでは、死刑囚の処刑までの苦しい日々とともに、処刑を執行する刑務官のつらい仕事に対する葛藤が描かれていた。この映画は、死刑が「残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰」に当たると言われることを考えさせた。