アジア・太平洋の窓
日本国内におけるビルマ(ミャンマー)報道は現在、2010年後半にも軍部が強行しようとしている20年ぶりの総選挙、あるいはタイ国境のビルマ国籍のカレン人難民に対する「第三国定住」が中心となっている。もちろん、長らく閉ざされてきた軍事独裁国家(タンシュエ議長)ビルマは、その他にも民族問題・内戦・麻薬・核疑惑などの問題を抱えている。
いわゆる「ロヒンギャ問題」は、17年を費やしてビルマ全土を回ってきた筆者にも手つかずの取材課題であった。もちろん、この問題はビルマに関わることであるから、少なくともその関係資料には目を通していた。だが、複雑な民族問題を抱えるビルマにあって、このロヒンギャ問題は複雑さを通り越して、理解できない部分が多かった。
まず第一に、ロヒンギャについての呼称・数字・歴史に曖昧な部分が多すぎるのだ。その英語呼称「ロヒンギャ」(Rohingya)は、現地で「ロヒンジャ」と呼ばれている。もともと「ロヒンジャ」の「ジャ(ギャ)」とは、「人びと」を意味する。「ロヒン」の方はというと、その語源は未だ確定されていない。そのため、現在のロヒンギャと呼ばれる人びとが先住者として昔からビルマに住んでいたかどうか、専門家の間でも議論は分かれている。
さらに、ビルマの先住民族の一つであるラカイン人はその昔、ビルマとバングラデシュの国境地域をアラカン王国(ミャウー王朝:1430-1785)として支配していた。今のバングラデシュ南東部のコックスバザールからチッタゴンまで、そのアラカン王国の支配地域でもあった。アラカン王国はその後、ビルマ王朝に、さらに英国の植民地支配を受けることになる。ここで「アラカン」という呼び方は、英語呼称である他、この地域に住む多数派のラカイン人と少数派の民族(ムロ人・テッ人など7~13民族)の諸民族を含む総称でもある。
ビルマは、英領インドから1948年に独立する。だが、ビルマとバングラデシュの国境が確定したのは、両国間を流れる自然のナフ川を境に1966年になってからだ。それまで、バングラデシュ人もラカイン人もロヒンギャも、両国(バングラデシュは当時東パキスタン)との間を自由に往来していた。
ビルマ西部に位置するラカイン州(アラカン州)の総人口は現在、300万人とも推定されている。そのうち多数派を形成しているのは仏教徒のラカイン人である。ラカイン人の約85%は仏教徒であるが、100%がムスリム(スンニ派)のロヒンギャは70万人~100万人と考えられている。
実はロヒンギャの人びとは1978年と91年、ビルマ軍政による強制労働・財産没収・強かん・移動制限による教育や商業活動の妨害などの迫害を受け、バングラデシュ側に20万~30万人が逃げ出している。それ以後も、難民の流出はたえず続いていたのだがほとんど報道されることはなかった。
2009年1月、再びロヒンギャの問題が国際ニュースに登場した。バングラデシュの移民ブローカーの手配した船に乗ったロヒンギャの人びとが、南タイに流れ着いたのだ。タイ国軍は、彼らを保護するどころかエンジンを取り外した船に移し替え、公海上に放置した。その結果、最大1,000人もの人が命を落としたとされる。
ロヒンギャ問題は今、どうなっているのか、その実態を自分の目で確認しようと2009年12月、「ロヒンギャ難民」取材の拠点となるコックスバザールに飛んだ。そこで、ロヒンギャ問題の深さを目の当たりにする。当初は外国人として客観的な立場でこの問題に取り組むことができると思っていた。だが、思いもよらない歴史に直面することになった。
イスラーム国家であるバングラデシュは、英国の植民地支配を受けた後、東パキスタンと名前を変え、1971年に独立する。その際、多くの仏教徒ラカイン人がビルマ側に移り住んだ。だが、コックスバザール周辺には、少数派となった仏教徒ラカイン人がまだ住んでいる。ロヒンギャの取材中、その手助けをしてくれたラカイン人からコックスバザールの仏教寺院に関する小冊子(2008年発行)を手渡された。
冊子の表紙をめくると、「第2次世界大戦中の1942年4月、日本の爆撃で殺された祖母の思い出に捧げる」とあった。さらに他の資料を読むと驚くべき歴史を知ることになる。
「イギリスの支配は途中、3年半ほど日本に邪魔されます。日本が1942年-1945年ビルマ全土を軍事的占領したからです。(中略)問題なのは、日本とイギリスがそれぞれに宗教別に地元の人々から構成される軍を作り、戦わせたということです。(中略)両者の軍事的対立は帝国主義イギリスを倒すとか、ファシスト日本を倒すという大目的ではなく、イスラム教対仏教徒の血で血を洗う民族紛争、宗教紛争と化していきました。そして、両者の間に取り返しのつかないトラウマがこの時生じるわけです」(「『ロヒンギャー問題』の歴史的背景」根本 敬・上智大学)。
仏教徒であるラカイン人とその地域に住むムスリムたちの確執は、実は英国と日本とによって作り出されていたのだ。
ビルマにおいて、法的な身分が不安定なロヒンギャたちは、1950年代から60年代にかけて、当時民主的に選ばれたウー・ヌー政権から市民権を得て特別行政区で暮らしていた。だが1962年に軍事クーデーターを起こしたネゥイン将軍によって、独自の社会主義国家建設の下、彼ら彼女たちは市民権を剥奪され始めた。特に1982年に制定された国籍法によって、ビルマの人は「国民」「準国民」「帰化国民」と3種類に区別されることになる。ロヒンギャたちは、この法律を恣意的に適用されてこれらの区分のどれにも属さなくなり、無国籍化してしまった。現在の軍政はその方針を踏襲している。
ビルマ軍政はロヒンギャを「英国植民地時代にチッタゴン丘陵からビルマに移住した人びと」と─ビルマ専門家の間でも論争のある事柄について─一方的に決めつけ、彼ら彼女たちを国民として認めず、ビルマから追い出そうとしている。ロヒンギャの人びとが、仮に移住者であったとしても、いったんは市民権を得た人びとから、勝手な解釈で彼らの法的な立場を剥奪することはできないはずだ。さらに、ビルマ国内で生まれたロヒンギャの子どもたちを無国籍化するのは、ビルマ政府は自らが批准している「子どもの権利条約」にも完全に反している。
外国人の間でロヒンギャの問題は、迫害される「難民」の問題としてだけ注目される。それはこのような複雑な背景が理解されていないからである。
さらに、軍政に対して抵抗運動を続けるビルマ人の民主化活動家たちも、ロヒンギャ問題への取り組みには消極的である。その理由に、85%を占める上座仏教徒のビルマ国民の意識に深く潜んでいる反イスラーム傾向のためだ。さらにビルマ人の民主化活動家たちは、同じ反軍政の立場を取る少数派諸民族(カレンやカチンやシャンなどの7大民族)団体の結束を尊重するため、ラカイン人寄りの立場をとっている。
「ロヒンギャに市民権を認めるには反対しない。ただ、ロヒンギャがビルマに昔から住んでいたという歴史やその先住性は認められない」
多くのビルマ人や諸民族はこのような立場を取る。ところが実際、現在バングラデシュに逃れた「ロヒンギャ難民」たちを支援しているのは、ラカイン人たちなのである。
「困っている人を見過ごしにできないではないか。我われは人道的な見地からロヒンギャの人びとを助けているのだ」
ラカイン人たちはそのように私に説明する。ロヒンギャ問題を考える際、民族や歴史・思想や主義が織りなす西ビルマの複雑な背景を理解することも必要なのではないか。
編集注:著者の近著に『閉ざされた国ビルマ』(高文研, 2010年1月)