肌で感じたアジア・太平洋
2010年1月25日から3ヶ月間、インターンシップで国際労働機関(ILO)アジア太平洋総局バンコクオフィスでお世話になった。希望通り「ジェンダーと女性労働問題」のスペシャリストのもとに配属され、労働問題をジェンダー視点から分析する機会を頂いた。仕事内容は、情報収集と文書の読み込み及び作成などのデスクワーク8割と、残りは国際会議やミーティングへの出席などの活動であった。デスクワークでは、特に二つの主要な仕事を任された。一つは、“Work, Income and Gender Equality in East Asia”(東アジアにおける仕事、収入、ジェンダー平等)という上司が過去に出版したガイドブック(2008年)に基づいた日本の章(未出版物)の更新。そしてもう一つはラオスの労働とジェンダーに関する出版物を読み込み、それを要約するという仕事である。要約作業は、2010年7月頃に提案される予定のプロジェクトのたたき台作成であった。
日本の章に関する私の任務は、数字の更新と日本語の情報源から収集した新情報を加えることであった。2005年以前のデータの箇所を2008年や2009年として公表されている数字に更新したり、前回のリサーチ担当者が英語の情報源のみに依拠したものであったということから、日本語のみの出版物や情報源に基づいた情報を盛り込むことを心がけた。日本は女子差別撤廃条約やILO100号(同一報酬)条約などを批准しているという事もあり、ここ数年の日本政府によるジェンダーと労働に関する積極的な取り組みが見られるため、更新の情報には事欠かなかった。
しかし、内閣府男女共同参画局のホームページにみられる奨励や取り組み内容と、実際に日本での日常生活で我々が感じることにまだまだギャップがあると、リサーチを通じて痛感した。男女雇用機会均等法の改正によって、1960年代に比べると男女間の賃金格差は縮小傾向にあるものの、ここ数年の2004年から2008年を比較すると0.2ポイントのみの上昇にとどまっており、2008年の時点で男性の収入を100とした時の女性は67.8である。先進国の中では日本の働く女性が受け取る対価は非常に低い。日本のNGOや研究者、弁護士の間で議論されている日本の法律の問題点、政策の欠点などをできるだけ盛り込むことを心がけた。この日本の章はILO駐日事務所に送られ助言を頂く予定であるが、最終的には政策の場でも活用されるような資料になることを願っている。
ILOバンコクオフィスにて。向かって右が筆者
勤務当初の1ヶ月は、毎日いろんなオフィサーとランチのアポイントメントをとりつけ、お話を伺ってきた。まず、ILOが一体何をしている所なのかを知るためである。日本にはILOの東京駐日事務所があり出発前に訪れてお話を伺ったが、実際に組織に入らねばわからない事が大半で、その疑問を解消するがごとく、多忙なオフィサーの時間を気にせず存分にお話を聴かせて頂いた。目に見えやすい技術協力のようなILOの活動は途上国にいるとよくわかる。実際にオフィサーが現地に入り込みコミュニティーと一体となりプロジェクトを進めたり、あるいは政府関係者と労働法に関する文書の草案作成にオフィサーとして関与するなどである。
日本のように出来上がった法律があり、技術協力を必要とせず、むしろ技術者を送り込めるような国にいては、ILOの活動の恩恵を目でみて、肌で感じる機会は少ないという事を学んだ。では、「ディーセント・ワーク[0]」(Decent: 直訳 まともな、適切な)を推奨するILOの影響力は先進国である日本には及ばないのであろうか?日本の労働とジェンダーに関する不平等の是正や労働者の権利確保、雇用者側の責務遂行を推奨する外的支援はILOに期待できないのであろうか?という疑問が浮かんだため、オフィサーをつかまえては尋ねた。ILOの条約を批准している限り、批准国は条約で保護する権利の国内確保が義務づけられている。ILOの活動の一つとして、未批准の条約を日本が批准するよう積極的に働きかけていることも、ILOが日本に対して与えうる影響という事であった。日本に帰国後はILO駐日事務所の広報以外の役割と活動を勉強してみたいと感じた。
バンコクに滞在し3ヶ月後の帰国直前という今になって、ようやくバンコクの生活に慣れてきた気がする。最近になってようやく1人でローカルの食堂で「カーオ・マン・カイ」(蒸し鶏のせご飯)を注文できるようになった。嬉しい。少し成長した気がした。最初の2ヶ月は大学院の学期末にあったため週末となれば課題の提出物や小論文執筆に追われていたが、提出期限も過ぎた頃ようやく他のインターン仲間と一緒に街に繰り出してナイトライフを満喫したり、週末には有名なウィークエンドマーケットにいって見物したり、旅行者ではなく短期滞在者としてバンコクライフを楽しむ方法を見つけられるようになった。アユタヤにいってお寺見物をしたり、バンコク市内にあるワットポー(涅槃寺)を拝観し古式タイマッサージを経験したり楽しんだ。
また、なるべく沢山の方々にお会いしてお話を伺い、人脈を作ることにも注力した。バンコクにいるからこそできる事なのだ。ILOの仕事を通じて、国連の他機関(UNDP, UNODC, UNICEF, UNESCO, ESCAPなど)の人との出会いが、次につながっていっている事を実感している。ユネスコでお会いした国連職員や日本の他大学の先生には、日本帰国後に再会したいと考えている。また、ILOを通じて在タイ日本大使館を訪問し、外務省や厚生労働省、総務省出身の書記官に話を伺ったりもした。在籍中の大学院の先生を通じて、バンコクにあるチュラロンコン大学の教授と会いジェンダーに関する話を伺ったり、数え上げればきりがない。ILOのインターンとして学んだり得たことの大きな二つは、ILO及び国連組織を大枠で捉えることができたという事と、タイだからこそ出会えた様々な経験を持つ教授や職員、各関係者に会えた事である。人脈を活かせるかどうかは自分次第であると思うが、可能な限り出会った全ての人と交流を続けていきたい。
日本のメディアでも大きく報道されているが、バンコクの政治的状況は深刻で日々状況が変わる。気がつけばUDD(反独裁民主戦線)が国連前の道路を占拠して1ヶ月以上が経った。赤シャツを着た反政府派による占拠でタクシーが通行できず、群衆の中を通り抜けて国連まで辿り着く日々が続いた。当初は軽い衝撃と、経験したことのない政治的変化の始まりを目撃している気がした。暑さのなか活気づけのためのカラオケ大会や、賑わう屋台の様子を毎日目撃するとさすがに慣れてきたが、1ヶ月の路上生活はきっと大変だろうと感じた。そして日本人レポーターを含む20名以上の死者を出した衝突の週末が過ぎ、緊迫した1週間のうち国連職員は自宅待機(Work from home day) の指示で在宅ワークを余儀なくされた平日も何度かあった。4月13日から15日のソンクラーン(タイ旧正月)の間は若干お祭りモードがみられたが、ソンクラーンも終わるとUDDは都心の商業地区のど真ん中へ移動し、座り込みの抗議を開始した。国連ビル前の道路から一斉に退去し今の職場は静かな状況ではあるがバンコク自体は相変わらず緊張が残る。
経済的打撃は計り知れず、また毎週状況が変わるであろう。できるだけ早く落ち着きを取り戻すことを期待したい。日本国内では、メディアによる選択された画像やイメージの報道になるため、視聴者にとって全体像がみえにくく、過激なイメージを持ちやすい環境にあると思う。
バンコクでの生活を通じて今の日本では考えにくいデモの規模を目撃し、デモ参加者も普通の一般人であることを彼らの顔をみて感じ、またデモ活動を反対する人たちの意見もきいて彼らの意見もよくわかると感じた。この現状に何も成す術がない自分自身に対して憤りを感じる大学の教授の話を伺うなどの経験を経て、少しではあるが日本国外で何が起こっているかを理解できたと思う。
以上、限られた字数でバンコクでの生活を凝縮することは挑戦であったが、直感と素直な感想を述べさせて頂いた。なんて密度の濃い貴重な3ヶ月を“生かされた”のだろうと感じる。自分は“生きた”のではなく、周囲の方々の多大なるサポートで“生かせて頂いた”と感じた。感謝の気持ちと、成長した自分を認識した。帰国後は、これらの思いを大切に次に繋げていく所存である。