肌で感じたアジア・太平洋
2010年4月30日(金)~5月8日(土)、(財)神戸学生青年センター企画の「中央アジアのコリアンを訪ねる旅2010」が行われました。ロシア沿海州(ロシア帝国時代の極東地域の一部を言う)に19世紀半ばよりコリアンが移住していました。1910年の「韓国併合」以降、コリアンは「敵国のスパイ」と見られることがありましたが、1937年には当時のソ連の指導者スターリンによって約17万人のコリアンが中央アジアに強制移住させられました。その子孫たちがいまも中央アジアに生活しています。中央アジアにあるカザフスタン、ウズベキスタンにコリアンを訪ねるツアーです。日本の植民地教育政策、そして解放後の在日朝鮮人教育政策を研究課題としている私は、別の運命をたどったコリアン(コリョ・サラム=高麗人と自称しています)の歴史と現状に学ぶために参加しました。旅の中から印象に残ったところを旅日記風に紹介します。
4月30日に成田と関西空港から分かれて出発した私たちは韓国・仁川空港で合流。韓国のアシアナ航空が仁川とカザフスタンのアルマティ、仁川とウズベキスタンのタシケントを結んでいます。その晩のうちにアルマティに到着。翌日のメーデーはカザフスタンでは「民族統一の日」。市内各所でそのお祭りがあります。アバイ(民族詩人の名)公園で見た祭りはすごいものでした。カザフスタンに住む140の民族のすべてではないけど、民族ごとにテントを出して民族衣装や食べ物などを展示しています。高麗人のテントもあり、朝鮮語で話したらおばさんが喜んで、チャミスル(韓国焼酎の銘柄)を注ぎ、料理を皿に盛ってくれました。
韓服を着た子とチャイナドレスを着た子の集団がいたので聞いてみると、韓服を着た子も中国人だとか。民族の多様性を誇るとても楽しい集まりでした。
写真:「民族統一の日」の高麗人テント
10時間の自動車旅行でウシュトベに
今日は、アルマティから350キロ離れたウシュトベに向かいます。ウシュトベとは、1937年に沿海州の朝鮮人が中央アジアに送られて初めて定着させられた場所です。
市内に入る前に朝鮮語を教えている小学校に。校長は2年間を除き、ずっと朝鮮人。今では多民族の子どもが増えています。朝鮮語の時間は週2時間、高麗人の子どもは必修で1年から11年まで。220人の生徒の中で朝鮮語を学ぶのは50人くらいとか。記念室もあり、そこには有名な卒業生などが展示されています(解説はロシア語と朝鮮語)。
その後、駅の近くの食堂で強制移住を体験された方々や高麗人協会の方と食事。朝鮮料理を基本とするものの、クッパがロシア料理のスープ的な扱いを受けていたり、取り皿が取り替えられて次の料理が出てきたりと、ロシア的な色彩も。
そして、丘の麓の最初の定着地に。記念碑に花を捧げ、1925年生まれのおじいさんの話を伺います。その言葉が「高麗語(コリョマル)」とも呼ばれ、古い朝鮮北部の言葉に、ロシア語の影響があり、カザフ語の影響もあるという言葉なので、聞き取りがかなり難しいです。こちらが現代ソウル・朝鮮語で尋ねることは聞き取ってくれるのですが。
定着地(今は記念碑だけで誰も暮らしていません)のそばには朝鮮人墓地が。生年・没年を見ていると、それぞれの人の歴史が浮かびます。
写真:ウシュトベの定着地(朝鮮語-白い石-とロシア語-黒い石-の碑)
ガイド(英語)付きで国立博物館を回りました。時代によって、ヨーロッパ系からアジア系の顔になっていくというのがおもしろいです。決定的なのはチンギス・ハーン(ジンギスカン)による征服です。そんなことで、ここは多数の民族が交差する場所。カザフ国立大学教授のゲルマン・キムさんの講義でも、高麗人は確かにカザフスタンにおける少数民族ですが、カザフスタンには数多くの少数民族がいること、ソ連時代はカザフ共和国の中でカザフ人自体が少数民族であったことなどから、民族政策に対して高麗人は今のところ安心しているようです。カザフスタンが経済的に周辺の国々より豊かなこともあり、カザフスタン建国後、カザフスタンを離れた高麗人はウズベキスタンなどに比べ多くなかったそうです(ウズベキスタンなどではロシアに移住した人も)。
写真:キジ(移動用テント)を利用したカザフ料理店(写っているのは筆者)
5月5日からはウズベキスタンのタシケントに移動。数人でホテル近隣探索に。「東大門」と漢字・ハングル書きの店が、その隣は「ソウル粉食(麺類等の店)」、少し行くと「チョンキワ(青瓦)」という食堂。「東大門」の前に店員(話してみるとマネージャー)が立っているので声をかけてみると、「コーヒーをごちそうしたい」と店内に招き入れてくれます。韓国ファッションの店。で、本日開店なんだそうです。韓国人が社長で毎週ソウルから衣類を仕入れるということで、応対してくれたマネージャーはウズベク人で、韓国で朝鮮語を習ったということでとてもきれいな発音をしています。
ホテルの多数チャンネルのあるケーブルテレビは、アルマティのホテルでは中国の放送が多数。タシケントのホテルでは中国の放送がなく、韓国KBSWorld。
ある高麗人合同農場(もしくは「組合」と高麗語では言うようです。そしてコルホーズの呼称はソ連崩壊後の今も使われています)で、長年に渡り農場長をしたキム・ビョンファさんの博物館に。博物館の管理をしているのは、生後半月で極東から移住させられた1世のご主人と3世の奥さん。元気な奥さんが一生懸命説明してくれますが、これまた難しい高麗語。奥さんの言葉からはソ連時代の方が社会が整っていたという思いが感じられます(ウズベキスタンになってから農場長もウズベク人に)。韓国からは大統領までがここを訪問していて、これまた韓国が中央アジアとの関係作りに努力している様子がうかがえます。奥さんは自分の自宅まで公開してくれました。ただし、地域の政府(という用語を使うようです)は外国人の出入りを快く思っていないとか。アルマティとの違いとして本当に警官の姿が目立ち、監視社会だなという感じです。
この施設はもともと高麗人支援のために作られました。現在でも全国にハングル学校が122あり、130名の教員がいます。(そういえば、前日、イスラム教の学校であるマドラサ見学の折、タシケント14小学校の子どもたちに出会い、子どもたちが我々を見て、「アンニョンハセヨ、コンニチワ」と挨拶しました。引率していたのは高麗人の先生でした)。在留する韓国人の子どもたちはインターナショナル・スクールか現地校に通っているので、土曜に週末ハングル学校をやっています。韓国から送られた教材を元にロシア語、ウズベク語用の教材の作成も行なっている、等々の院長の話でした。
アルマティの博物館とは異なり、この地にいかに多くの外勢がやってきたか。そして最後にはロシアの支配があり、それをようやく打ち破ったという主張です。しかし、展示されている人々の顔つきが変わってくるのはやはり、外勢との交配があったからだと思うのですが。
カザフスタンとは異なり、ソ連崩壊後はいち早く独立し、それまでキリル文字表記だったウズベク語をラテン文字表記に変えたりしていますが(人々になじみがなく結局まだキリル文字表記も残っています)、社会体制はよりソビエト的な国です。高麗人など少数民族は多民族の融和をいうカザフスタンよりは暮らしにくいだろうなと感じました。コリアン・コルホーズの組合長も独立後はウズベク人に変わり、高麗人が校長を継続したウシュトベの小学校とは違います(ウズベキスタンも少数民族の存在を認めているのですけど)。
写真:キム・ビョンファ博物館