特集 企業と人権を考える Part1
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を記憶にとどめている方は、とくに団塊の世代よりも上の方々では多いかも知れない。その中に次のような一節がある。「生活に必要なものを得てゆくために、人間は絶えず働いて来て、その長い間に、いつの間にか、びっしりと網の目のようにつながってしまったのだ。そして、…(中略)…見ず知らずの他人同士の間に、考えて見ると切っても切れないような関係ができてしまっている」。この先の叙述で「生産関係」という言葉が出てくるところあたり、書かれた時代背景を感じさせるところもあるが、しかし、自分が生きているこの世の中をどう捉えるべきなのか、という点でこの一節は、発刊以来70年以上を経た今日でも、なお説得力を失っていない。いや、失うどころか、グローバリゼーションのとめどなく進む今日にあって、ますますその言葉の力が増していると言っても過言ではない。
この一節を、ガイドブックに引用させていただいた。またこの中に出てくる「つながり」という言葉は、ガイドブックの重要なキーワードの一つにもなっている。
よく指摘されるように、日本のCSRは環境の取り組みから始まり、いわゆる社会的側面へと広がってきたといってよい。「環境報告書」→「環境・社会報告書」→「CSR報告書/サスティナビリティ報告書」というネーミングの流れが端的にそれを物語っている。
その社会的側面の中で世界的にメインストリームとなってきているのが人権分野を重視する流れである。ISO26000では社会的責任の原則の一つに「人権の尊重」が位置づけられているし、「中核主題」の一つは「人権」である。策定過程で日本のエキスパートとして中心的に尽力してこられた関正雄氏によると、「人権」は「環境」に次いでいち早く「中核主題」とすることが決まったという。ISO26000だけではない。グローバル・コンパクトの10原則では、労働分野も含めると、その半分以上が人権に関わる内容であるし、改訂作業中であるOECD多国籍企業ガイドラインも、ラギーの枠組みのもとに人権部分を大幅に充実強化する予定と聞く。
昨今のグローバリゼーションの中で、企業はその規模の大小を問わず、世界中に広がった「つながり」の中で仕事をせざるをえない状況になってきている。調達にしても、市場にしても、そうである。それは同時に、人権重視のメインストリームの中にさらされるということをも意味する。世界的に通用する「人権」理解をしておかないと、さまざまな問題に対処できない時代になってきているのだ。
一方、日本における「人権」の理解は、そのメインストリームに十全に対応できるものと言えるだろうか。否応なくグローバリゼーションの中に組み込まれる現実の中で、企業の、さらに言えば日本社会の対応力が、徐々に、しかし確実に問われつつあるのではないだろうか。いまここで、「企業と人権」に関わる課題を整理し、それを分かりやすく語りかけ、問いかける試みが是非とも必要ではないか。
こうした課題意識から、ヒューライツ大阪では昨年度、「企業と人権」研究会を発足させ、香川孝三(大阪女学院大学)、島本晴一郎(京都文教大学)、寺中誠(アムネスティ・インターナショナル日本)、菱山隆二(企業行動研究センター)の各氏にメンバーになっていただき議論を重ねてきた。ガイドブックの内容は、研究会メンバーによる原稿をヒューライツ大阪が編集し再構成したものであり、この研究会の成果ともいうべきものである。
ガイドブックは、企業で働く従業員の方々を読者対象として設定した。その際重視したのは、一人ひとりの身近な日常から人権の問題を考える視点である。CSRの取り組みでは、その主体が企業であることはもちろんだが、一方、その企業を構成する諸個人の人権理解と人権尊重意識が不可欠である。こうした観点から、ガイドブックでは、企業にとっての人権をテーマとしながらも、さまざまにつながりあっているこの世界の中で、私たち一人ひとりが人権、つまり「人を大切にすること」をどう受け止め、(吉野源三郎の書名のごとく)「どう生きるか」という視点も織り込んだ。
ガイドブック全体を通じてのフレームワークは、ISO26000でも使われているサプライチェーンとバリューチェーンの枠組みである。日本のCSRで人権といえば職場の問題に限定されがちであるが、企業が事業活動を行う上でのさまざまな「つながり」の中で、多様なステークホルダーと関係を取り結ぶ場面のどこにでも人権の問題があることを示そうとした。
ガイドブックは4つの章から構成されている。
第1章「働く人の人権」では、まずは身近な職場に目を向け、そこには多様な「人」が働いており、さまざまな人権の問題があることに目を向けた。男女の差別の問題、ハラスメントの問題、障がい者雇用の問題など、日本のCSRでよく語られる内容に触れており、比較的わかりやすい部分かもしれない。しかしこの職場の問題も、バリューチェーンの中の企業の事業プロセスの一部と位置づけることで、問題を捉える視角がより明確になる。
第2章「消費者保護と人権」ではこの視角の方向を変え、消費者の人権を考えている。シュレッダーと電気洗濯機の具体例を見ながら、消費者の安全・安心を製品やサービスの生産者として重視し、「人」としての消費者を大切にすることが、消費者の権利、つまりは人権を尊重する取り組みにほかならないことを示そうとした。さらに、実は消費者の側も変わらなければならないことに、「持続可能な消費」の概念を紹介しながら触れている。
第3章「調達先と人権」では視角をサプライチェーンに向け、調達過程と「人」との関係を考えようとしている。私たちの身のまわりにあふれている植物性油脂や携帯電話などの例を挙げながら、それらの原材料を調達する過程で、さまざまな人権の問題が起こっていることを示した。
第4章「グローバル化の中の企業と人権」では、前章でみたサプライチェーン上の人権の問題を、企業による輸出入と投資という視角から幅広く捉え直し、グローバル化の中で企業は人権の問題をどう考え、どう行動するべきかを、前の3つの章を総括するかたちで問いかけている。
企業は人権の尊重に取り組む責任がある。ではしかし、その取り組むべき人権の問題はどこにあるのか? 複雑に絡み合ったこの世界の中で、どういう視点で人権の問題を考えるべきなのか? 何が人権の問題で、何がそうではないのか?……そういった問いが生じたときに、ぜひこのガイドブックを開いていただきたい。問いに対する答えのヒントが、きっと見つかるはずだ。
人権の大切さを伝える際に、視覚に訴えるデザインや写真は大きな力となる。このガイドブックでも、「人」と「仕事」をイメージさせる写真を多く配置したが、写真撮影には複数の企業に快くご協力いただいた。多忙な中、写真撮影にご協力いただいた、クボタサンベジファーム(株)、(株)リヴァックス、(株)プロエントコミュニケーションズ、(株)森下仁丹ヘルスコミュニケーションズ、(株)福市の各社の方々に、この場をお借りして厚くお礼を申しあげたい。
私たちは、日常の多くの時間を「仕事」に費やしている。働くことの意味はさまざまに語られるが、「どう生きるか」という根本的な問いは、その多くの部分がこの「働くこと」とつながっている。そして、多くの人びとの働く場は企業である。持続可能性を問われるこの世界にあって、企業自身もまた「どう生きるか」を自ら問いつづけるべき存在である。それは企業自身の持続可能性のためでもある。このガイドブックが、企業とそこで働く人びとが少しでも「よく生きる」ことのヒントとなることを願いたい。
なお、今回はパイロット版として試用いただく趣旨で制作した。今後、バージョンアップしたものを発刊する計画である。関心のある方々は是非ご連絡をいただきたい。
『人を大切に―人権から考えるCSRガイドブック』
発行日:2011年3月31日
発行者:(財)アジア・太平洋人権情報センター
(ヒューライツ大阪)
ヒューライツ大阪「企業と人権」研究会メンバー:
香川孝三(大阪女学院大学教授)
島本晴一郎(京都文教大学教授)
寺中 誠(東京経済大学客員教授、アムネスティ・
インターナショナル日本前事務局長)
菱山隆二(企業行動研究センター所長)
白石 理(ヒューライツ大阪所長)
松岡秀紀(ヒューライツ大阪嘱託研究員)
【お問い合せ:ヒューライツ大阪】
Tel:06-6577-3578
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