人権の潮流
「俺は23年前に1,000ドル片手に日本に来たんです。今こうしてあるのはみなさんのおかげなんです。恩返しがしたい」。バングラデシュ出身のリードイがそう言って電話してきたのは私たちが救援活動を始めてすぐのことだった。
3月11日(金)、東京上野の全統一労働組合の事務所で打ち合わせをしていた。突然大きな揺れが来た。「逃げろ!」のかけ声で、5階と6階にいたスタッフ、組合員たちが一斉に階段を駆け下りた。広い道路(中央通り)には、同じように飛び出してきた人たちでいっぱいになった。歩道も車道も関係なかった。揺れが続く。誰も建物に戻ろうとしない。電気店の大型テレビに津波の様子が映し出された。八戸だという。頭に中に志津川の文字がよぎった。
7年ほど前に、倒産問題、雇用保障の取り組みで宮城県志津川町(現在の南三陸町)に何回か行くこととなった。そのことがきっかけで、水産加工会社に中国人研修生・技能実習生が働いていることもよく知っていた。その水産加工会社の経営者は、労働条件や職場環境について私に相談してくるような実直な人だった。
とにかく連絡をしようと電話をかけるが全くつながらない。会社が海沿い、本当に目の前が海というところにある。やばいと思った。当時の組合員たちにも連絡がつかない。どうしようかと悩むうちに2日が過ぎた。とにかく現地に行くしかない。そして確認しなければ。救援物資も必要だろう。どうせ行くなら救援物資を持って行こう。幸いにご近所つきあい(自治会)の運送会社の社長さんが私の提案を快く受け止めてくれた。「わかりました。行きましょう」。
志津川中学から見た南三陸町志津川地区(4/3)
3月15日(火)、東北地方選出の国会議員が議員会館で実質的に「足止め」となっていることを知り、衆議院議員の郡和子さんに相談に行くこととした。郡さんはこれまでも外国人研修生・技能実習生の人権擁護に活動してきた方である。郡さんも交通手段がなく大変な様子で、ひっきりなしに電話で現地とのやり取りを行っていた。それでも私の相談に親身に応じてくれた。翌16日(水)、郡さんの事務所から南三陸町災害対策本部の電話番号が伝えられた。すぐに電話した。「救援物資を持って行きたい」、「○○商店のXXさんの安否は分かりますか」の問いに、「安否はここでは分からない」、「救援物資を是非お願いしたい」との即座の返答。
ここから救援活動が本格的に開始された。まず、「緊急車両」の手続きである。東北自動車道は、一般車両は通行できない。私の車とトラックの緊急車両の手続きを警察で行った。さすがに警察も迅速な対応で、手続き終了時には「気をつけてがんばってください」と激励もされた。準備は整った。全統一労組や「移住労働者と連帯する全国ネットワーク」(移住連)の関係者に一斉に以下のメールを送った。
3/16(水)11:53「震災救援」:全統一として倒産問題を取り組んだ関係で南三陸町志津川との交流がずっとありました。今、現地対策本部と直接連絡がつきました。ようやくルートが確立されました。現地としては、ミルク、おむつ、生理用品、燃料、食べ物、衣料品、衣類等がとにかく足らない。毛布はようやくいきわたってきた、とのことです。現在、トラックを通してほしいという旨の交渉も行っています。寄付等を募らせていただけますと幸いです。直接、志津川の対策本部に持っていく予定にしています。
3/17(木)0:25「震災救援具体策」:被災地への救援を以下のように提案します。支援先:南三陸町志津川現地対策本部。もちろん中国人研修生・技能実習生を含めて。方法:10トン車による資材輸送と寄付金。期日:可及的速やかに。現地からの要望物品(3/16現在)はミルク、おむつ、下着、生理用品、燃料、医療品など。物品については、全統一、もしくは鳥井まで事前連絡を下さい。寄付金は全統一の口座にお願いします。よろしくお願いします。
3/17(木)18:27「救援参加方法」:トラックの手配がほぼ完了しました。あとは積むものです。(略)
3/19(土)19:32「出発時刻決定・救援」:宮城県南三陸町への第1便の出発の時刻が決まりました。3/20(日)、つまり明日の午後10時です。(略)午後8時から積み込みを行います。10トン車にはまだまだ積み込む余裕があります。どうぞ集積場所のハイムへ物資をお願いします。また、荷受けや仕分け作業も行っています(略)
3/19(土)23:51「被災地救援・追い込み」:ちょっと焦ってお願いです。特に明日一日の応援を呼びかけます。(中略)明日は仕分けや買い物などの作業を行います。まずは午後8時の積み込みまでの勝負です。(略)
3/20(日)10:57「タイトル無し」:南三陸町災害対策本部からの連絡です。(中略)道路は災害対策本部まで10トン車は通行出来るそうです。(略)
3/21(月)0:01「USTREAMで配信」:現在東北自動車道を進行中です。今回、同行の若者たちがUSTREAMで実況中継をしてくれています。
3/22(火)10:33「南三陸町救援報告1」:各地から救援活動に様々な形での参加ありがとうございます。昨日は帰宅後、さすがに爆睡でした。年ですね。1,000㎞を走り抜きました。同行した若手組が以下のように報告をYouTubeにアップしてくれています。ご覧下さい。外国人研修生・技能実習生は60名いたようです。全員無事帰国しました、と関係者から直接聞きました。会うことは出来ませんでした。救援物資は、南三陸町災害対策本部に届けました。各避難所には、軽トラックで配送していました。喜んでいただきました。(略)
トラックで運んできたタンドリー釜(4/24)
こうして3月21日早朝、現地に入った、表現のしようがない惨状であった。何もかもが津波に流され、がれきの山。建物が無いのである。道はようやく確保されていたものの一部分。言葉が出ない。地球が壊れているといった道路の隆起や倒壊した阪神大震災の惨状とはまた異なる想像を絶する状況であった。ただ一方で、喜びの涙の再会が続いた。組合員や関係者たち自身の生存が確認されたのだ。水産加工会社の経営者は、胸を張って私にこう言った。「研修生や従業員から先に避難させましたからね」。聞くとこれまでの津波の経験から会社の裏の崖に非常階段を設けてあったとのこと。しかし、「家も何も全部無くなった」と家族、親族の多くが津波に流され亡くなったことも事実であった。
このように「とにかく被災地へ」とスタートした救援活動は、「名無しの震災救援団」として、第1便以降、毎週末、南三陸町で救援活動を行っている。私たちの救援活動の基本は外国籍住民が差別なく救援されることと、外国籍住民の参加による救援活動ということである。救援物資や寄付金はこれまでの移住労働者の生活と権利擁護活動のつながりがもたらした。全国から呼びかけに対して、驚くほどの早さと熱心な参加が続いている。ひとりで薬局を回り、ミルク缶を54缶も送ってきた人もいる。隣近所に声をかけ仕分け作業に参加する人もいる。紙面の関係で書ききれないが、本当にたくさんの様々な形での参加が続いている。
直近の炊き出しでは(4月24日)、バングラデシュ人グループ30人がタンドリー釜を4基も持ち込んで、ナンとタンドリーチキンを2,000食以上配膳した。撤収時には被災者との感動的な別れの場面があった。被災地で地域の一員として救援物資の管理を采配するフィリピン出身の人たちとの出会いもあった。ブラジル人コミュニティからの熱烈な救援物資搬送活動への参加もあった。
南三陸町ではようやく電力復旧が部分的に進んでいる。水はまだしばらくかかりそうである。仮設住宅の建設も始まっている。今回の震災の被災は広範囲に及んでいる。私たちの活動はまだまだ一部分地域である。しかしそれぞれの地域での救援・復興活動と結びあっていくことが出来る。多民族・多文化共生の救援活動は始まったばかりである。継続的な救援が求められる。名無しの震災救援団への参加が広がっている。「今度はバーベキューの炊き出しをやりましょう」、「ここに来られてよかった。ありがとうございます」。リードイの言葉だ。
志津川高校避難所の被災者と。私たちが東京に戻ろうとしたとき、被災者の
人たちが外に出てきて見送ってくれるという感動的な瞬間であった。(4/24)
※写真はいずれも筆者提供
※詳細な活動内容、および寄付金の振込先、支援物資の送付先は、「名無しの震災救援団」のホームページに掲載されています。(http://74no9endan.web.fc2.com/)