人権さまざま
すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。
(市民的及び政治的権利に関する国際規約 第19条2項)
難しいことをちょっと。論語という中国の古典、 今から2500年ほど前に、孔子が言ったということばを弟子が書き留めたものだという。そこに、「子(し)日(のたま)わく、民(たみ)は之(これ)に由(よ)らしむべし。之を知(し)らしむべからず。」(泰伯第八 196)というのがある。今様に言えば、一般大衆に理解してもらおうというのは難しい、権威ある専門家のいうことを信じて従ってもらえばよろしい、とでもいうことか。専門家とは、政治の専門家、行政の専門家、教育の専門家、原子力の専門家など色々であろう。「学識経験者」、「有識者」というのも専門家か。「知識人」とか「文化人」というのはどうだろう。とにかく現代社会は専門家で溢れているのである。「専門バカ」という言葉まであるが、これは蛇足。
枕はこのくらいにして本題に入ろう。東日本大震災が起こった2011年3月11日はスイス、ジュネーブにいた。テレビのニュースで次々に伝えられる被災。津波に飲み込まれる東北沿岸の町まち、流れる船、逃げる車の列に襲いかかるどす黒い津波。福島第一原子力発電所(原発)の崩壊と放射性物質の飛散、汚染された空気、海水、風に乗って飛ばされ広い範囲に広がる汚染。東京から海外に避難する人。自国民を連れ帰るためチャーター機を東京に飛ばす国、大使館を東京から大阪に移す国。原発ではメルトダウンの可能性、など、など、など。
日本に戻ってテレビを見るとこれも東日本大震災とその後のことばかり。ただ一つのことに気付いた。原発の崩壊に伴う被害についてのマスコミ報道はどこを見ても大差ない。コントロールされた情報提供である。東京電力も政府の原子力保安院も、記者会見では事実に基づく現状説明をしようとしているのかもしれないが、もう一つ納得がいかない。何が起こっているのか、危険度は、そして対策は。日本の外では、東京電力と日本政府が情報を隠しているのではないかと言われだしていた。最悪の事態を想定して、それに対する対策を求めるという。日本では、そうではない。「冷静に行動していただきたい」、「風評に惑わされないように」という。
信頼できるデータがない、さらに詳しく調査しなければという。農産物や海水、土壌など国の「基準値」を超えた値が検出されたときにも「当面健康に関しては問題がない」と説明。「当面」とはどういうことか、はっきりしない。福島県の小学校の校庭では放射線量が年間20ミリシーベルト以下であれば校庭で遊んでもよいとした文部科学省。国会での質問に答えて、国際放射線防護委員会(ICRP)の勧告に従ったと説明した。これに対しては、「専門家」からも異論続出であった。「年間被ばく量の基準値以下だから大丈夫」もそれほど大丈夫ではないということか。いったい基準値とは何か。誰が権威的に決めることなのか。私にはわからないことばかりである。
震災から2カ月が過ぎて、東京電力は、地震と津波が起こった翌日、3月12日には炉心溶融(メルトダウン)が起こっていた可能性があると発表した。燃料棒が溶けて圧力容器から格納容器に漏れ出たということである。2ヶ月間正確な計測ができなかったので言えなかったということらしい。多くの人、とくに「専門家」がそうだろうと思っていたことを当事者が「発表した」ということにすぎない。核心の情報は影響が大きいので出さず周辺の情報を小出しにしていく。社会一般が慣れたころを見計らって重要な情報を出しても人は驚きもパニックもしないという配慮か。日本の大手マスコミは公式発表に疑問を投げかけることはあまりないようである。情報は山のように出てくるが、本当に大切な情報、知りたい情報は手に入らないというもどかしさ。原子力発電所周辺の放射線の測定値についても緊急時の混乱のなかで報告をしなかった、開示するのを忘れていたということも聞く。問い詰めるマスコミの責任はどうしたのだろう。
情報を得ることは人権である。情報へのアクセスを保証するために、政府は社会の関心事について情報を積極的に公開していく責任がある。民主主義を旨とする社会では、情報は「専門家」だけがアクセスできるということではいけない。福島原子力発電所に関する情報も隠しているのではないかと疑われることのないように、情報の透明性を実現してほしい。知らしむべからず、よらしむべし、とならないように。