肌で感じたアジア・太平洋
現在ラオスの首都ビエンチャンに赴任中の弟とその家族を訪問するために2011年3月にビエンチャンに1週間、5月には会議でハノイに行った続きで世界文化遺産都市のルアンパバーンに3日間滞在した後再びビエンチャンに行った。私はラオスの専門家でも何でもなく、気楽な観光で短期間訪問しただけだが、そこで見て聞いて感じたことをご紹介したい。
ラオス行きを決めたとき、向こうの人権NGOをインターネットで探してみた。唯一アムネスティ・インターナショナルなどの国際NGOがラオスの人権状況について報告しているのが見つかったが、現地で活動しているいわゆる人権NGOというのは何も見つからなかった。ヒューライツ大阪の方にメールで伺うと「ラオスは非常に難しいです」というお答え。教育や医療問題などについて活動はできても、社会主義の国でいわゆる市民的、政治的権利に関して活動するのは困難なのは理解できる。国内のすべてのメディアは国営で政府が管理し、政治的な言論や出版活動は厳しく制限されているという。近年の中東での革命運動の重要な道具となったFacebookは警戒する政府も多く、ベトナムなどではブロックされている。ラオスでは意外なことにアクセスできた。そのことについて、ラオス在住の人が「のんびりしていて政府はそこまで意識が及んでいないのでは」と冗談交じりに言っていたが、真相はわからない。ただ、街や人がのんびりしている、というのは本当にそのとおりだ。
ビエンチャンの小さな空港に到着。弟が運転手つきで迎えに来てくれていた。この国で運転手を雇う場合、支払う月給は約150ドルらしい。メコン川沿いの経済的なホテル(朝食付きで一泊23ドル)に宿泊。すぐ川の向こうはタイ。泳いで渡れるくらいの距離で人々の生活ではタイとの関係は密接な感じだ。国境にはビエンチャンから車で30分くらいのところに「友好橋」があり、ここを毎日、鉄道、車が行き来している。あまり産業がないラオスでは、市場で並んでいる衣料品や食料品もタイ産のものが多く、ラオスの人はここを通ってタイに買い物に行くそうだ。ラオスの通貨は「キープ」だが、タイの「バーツ」も米ドルも使える。言葉もタイ語とラオス語は非常に似ていて、テレビでもタイの番組が多く放送されていた。
ビエンチャンはうわさには聞いていたが、これで本当に首都か、と思うほど小さな街だ。いろいろ行った国の中でもここは非常に旅行者にとって「難易度」が低いと感じた。引ったくりなどは時々あるようだが、アジアのほかの国の都市とは違い、特に身の危険を感じるような場所もなく、物乞いや押し売りする姿もほとんど見かけない。ラオスは国連の中で「最貧国」に位置づけられているが、少なくともここに住む人の生活の質はそんなに悪くないのではないかと感じた。日本の本州ほどの面積に、わずかに600万強の人々が暮らしているラオスでは、その人口の希薄さ故に、人々は(基本的には)土地に困らず、例え1人当たりGDPが世界最低レベルであっても、少数民族も稲作や畜産を中心とした自給自足が出来ており、データで見るほど、実際には貧困を感じさせないようだ。一方、水力発電、鉱山開発、プランテーション等における外国からの直接投資に起因する急速な経済成長の結果、直近10年間の実質GDP成長率(年率平均)は7.8%と高い。街もなんとなく勢いがある。しかしその結果、都市と地方との経済格差は拡大しているという。ビエンチャンだけではやはりラオス全体のことは分からない。
小さな街だから気づくと毎日同じ道を行ったりきたりしていた。大通りから少し入ったところに日の丸の入った看板が見えた。中をのぞくと、どうも日本の政府開発援助(ODA)が支援している医療センターらしい。若いドクターとアシスタントの人がいて、飛び入りで話を聞かせてもらった。そこは特に青少年を対象にし、無料で彼ら彼女らの身体の相談にのっているという。一番多い相談は性に関するもので、性病予防の指導などもしている。利用者も年々増えている、とその利用者数の変化のグラフを誇らしげに見せてくれた。こういうところで日本のODAが活躍しているのか、と参考になった。また、同じ敷地内の隣の建物では、若い女性たちが美容師またはマッサージ師になる訓練を受けていた。地方から出てきたらしいが、ここでは彼女たちに現金収入を得るための技術を教えているという。マッサージサロンも何度か行ったが、若い女性たちはそこで寝泊りしていた。「出稼ぎ」して故郷にお金を送っているのだろう。
街の中心のランサン通りには国連などの国際機関や大使館が並んでいる。私はそこでアジア開発銀行(ADB)のオフィスを訪問した。フランス植民地時代のきれいな建物で2階にあがるときは靴を脱ぐようになっていた。ラオスはインドシナのバッテリーとも呼ばれており、極めて高い水力発電ポテンシャルをもっているといわれる。水力発電によって生産された電力が輸出で重要な位置を占めており、大型ダムの建設が続いている。世界銀行とADB(日本は両者の主要ドナー国)が出資するラオスのナムトゥン㈼ダムは約6千人の立ち退きを引き起こしたが、ADBオフィスの人によれば、特に問題なくスムーズに運営されており、立ち退きをさせられた人たちの移住先の施設もよく、ADB総裁も感動していたという。一方、ダムが引き起こしている環境や地域住民の生活への影響については日本の環境NGOも詳しく報告している1。経済成長のために、少数民族の伝統文化や生物多様性など、GDPでは計れない豊かさが損なわれているなら残念だ。
ラオス国立大学の法学部にもおじゃました。制服姿の学生の中に、僧侶もちらほら。僧侶になれば学費、生活費が無料なので、地方の貧困地域から出家し、そこから大学に通う若者が増えているという。また法学部では最近教授と学生が地域に働きかけ、法律などを市民にわかりやすく説明するグループがいくつかできたそうだ。その中に「人権グループ」もあるらしいが、残念ながら担当の先生は不在だった。ぜひ次回詳しくお伺いしたいものだ。
14世紀に誕生したランサン王国の都として知られるこの街には、1995年の世界遺産登録から訪れる外国人観光客が増え続けている。高級ホテルやおしゃれなレストランも多い。その一方でメコン川で体を洗い歯を磨く地元の人を見かける。彼らの生活は昔のままのようだ。毎朝行われる托鉢では、人々は5時ごろから道に敷物を敷いて供え物を用意し僧侶を迎える。すっかり観光の目玉になった托鉢だが、人々の敬虔な姿と僧侶の大行列には感動を覚えた。
夜の名物のひとつはナイトマーケットだ。歩行者天国となった通りの道いっぱいに露店が並ぶ。少数民族のひとつモン族の人たちが、手作りの絹製品や小物などを村から毎晩運んで売っている。モン族といえば、よくラオスの人権問題で紹介されている。モン族はベトナム戦争中に非公式に米軍に協力して共産勢力と戦ったが、1975年の終戦後、米軍がモン族社会を置き去りにしたため、ラオス政府は彼らを追い詰めて殺害し弾圧。そのため多くのモン族が難民としてタイや米国に流出した。しかしタイ政府は2009年12月にモン族難民のラオス送還に着手したため、ラオスによる人権侵害が懸念されている。また、いまだに密林に隠れ住み、ラオス軍の襲撃を受けながら、医療や食料が不足した状況で生きながらえているモン族もいて、彼らの状況が心配されている。
ナイトマーケットのモン族の人たちにこのような状況は直接関係ないのかもしれない。しかし、モン族を含む少数民族はすべてラオ族よりも社会的地位が低いといわれている。それが彼らの生活にどう影響しているのだろうか。昼間参加したツアーの帰りにモン族の村にいくつか立ち寄った。家の外で女性が機織機で絹製品を作って売っていた。見るからに貧しいと感じる村では小さな子どもが品物を売ろうとしてずっとついてきた。ナイトマーケットでは、高校生くらいの数人にいろいろ聞いてみた。みんな英語で会話ができた。毎日学校が終わって商売に来ていて、週末は母親と一緒に商品を作っているらしい。手触りのいい絹製品が日本円で200円か300円程度。彼女たちへの応援の意もこめていくつか購入した。
ラオスの教育事情も興味がある。地方の学校の調査に来られていたシャンティ国際ボランティア会の方に偶然お会いしたが、彼らによると地方へいくにつれて学校の数も従事する教員の数も少なくなり、教科書も不足していて、問題は多いという2。都市と地方の格差はここでも見られるのだ。
ラオスはおいしいものを食べてのんびりするにはいい所だとよく聞く。全くその通りであった。同時にこの国の抱える問題や日本との関係も垣間見みて、この国に対する関心をさらに強めて帰路についた。
1たとえば http://www.mekongwatch.org/env/laos/nt2/index.html 参照
2詳しくは http://sva.or.jp/laos/ を参照。
日本のODAによるヘルスクリニック
技術指導
ルアンパバーンのネットカフェで
モン族の少女:ナイトマーケットで