特集 あらためてたずねる―「人権」とは何ですか?その1
ヒューライツ大阪は、2011年2月に、将来ビジョン[2011年度―2016年度]を作成し、ヒューライツ大阪のあるべき姿と重点事業を示した。その作業を通じて日本では、人権がよく理解されていないという現状が指摘された。ここでいう人権とは、「人権の国際基準」あるいは「普遍的人権」というものである。ヒューライツ大阪の使命は、すべての人のための人権を、多くの人々に理解され、受け入れられるまで伝えていくことである。2011年12月10日に63回目の人権デーを迎えたが、二人の人権の専門家に、それぞれの立場から市民の皆さんへ「人権とは何か」を語っていただいた。
(編集部)
プロボクサーとして有名なモハメド・アリは、カシアス・クレイという名前を名乗っていたアマチュア時代に1960年にローマで開催されたオリンピック大会のボクシングで金メダルを獲得している。ところが、彼は、白人の経営するレストランで食事をしようとしたところ人種を理由に入店を拒否され、激昂のあまりに金メダルを川に投げ捨てたという。
アメリカ合衆国では、1861年から65年まで南北戦争とよばれる内戦があった。これは、奴隷制存続を主張する南部諸州のうち11州がアメリカ連合国を結成して、奴隷制廃止を主張する北部諸州を中心とするアメリカ合衆国(北軍)と戦ったものだが、北軍の勝利に終わった。南北戦争中に出されたリンカーン大統領の奴隷解放宣言の趣旨は、憲法の改正条項の中に奴隷制度の禁止と法の平等保護(=法の下の平等)として書き込まれた。
このように憲法で法の平等保護が規定されてから100年も経過した後にもかかわらず、なぜなおレストランで人種差別が存在したのか。
実はこのエピソードが憲法で規定された権利の本質と限界を示している。その本質を知るには、そもそも憲法上の権利が誰と誰の間の権利なのかを理解する必要がある。結論的にいうと、それは政府(government)と私人を規律するものにすぎない。政府とは、立法・司法・行政をその内容とする統治活動(govern)を担う組織で、日本では衆参両議院、内閣以下の行政機関、裁判所のほか、地方自治を担う都道府県・市町村をいい、私人とは統治活動の対象となる人である。
これを前提に日本国憲法に規定された具体的権利をみてみよう。例えば、憲法21条は、集会・結社・表現、以上3種の自由を保障し、検閲の禁止、通信の秘密を規定している。例えば、表現の自由の保障は、雑誌や新聞が、時の政府の政策に不都合な事実や主張を記事にしようとしたとき、政府がその公表・発売の禁止をしてはならないことを意味する。イギリス市民革命時に国王側が実際にこれをしたので、革命後これを禁止するために表現の自由の保障が規定された。その他の自由や権利も、私人が他の私人に対してもつ権利ではなく、政府に対してもつ権利ということが当然の前提とされていた。日本国憲法もその例外ではない。
しかし、いかに憲法上の権利が政府と私人の間を規律するルールであるとしても、人種差別は、やはり人間として行ってはならないことであることは誰しも認めるであろう。ところが憲法は私人と私人との間では拘束力をもたない。これは憲法上の権利の歴史的由来からくる限界である。モハメド・アリと人種を理由に入店拒否した民間レストラン経営者の間に憲法で規定された「法の平等保護」は及ばないのはこのような理由による。
このように考えても、違う視点からの疑問がわいてくる。憲法は国のあり方の基本を定めるルールである。人権規定はその憲法に規定されたものだから、私人相互の関係、つまりに民間に及ばないのはおかしいのではないか。
この疑問に答えるためには、まず「国」とは何かを知る必要がある。国は、領域(=領土・領空・領海)・私人・統治活動の3要素から成っている。統治活動は政府が担当するから、統治の要素の代わりに政府と置きかえてもよい。
人間はひとたびこの世に生を受けた以上は、生命・自由・財産が理不尽に奪われないことが保障され(=自然権思想)、実際にこの保障を担当する存在として政府を作りその保障のために必要な統治活動をするための権限を与えた(=社会契約思想)。しかし、法律や命令だけでは従わない者を強制的に従わせるために、実力を行使する警察組織や徴税組織などがどうしても必要になる。ところが、これらの組織はときには暴走する危険性をはらむ。そこで、その暴走から私人を守るために憲法に各種の権利を書き込んだのである。
ところで現実社会では、私人といってもマス・メディアや大企業など実質的に政府に匹敵する力をもつ組織もある。しかし、私人と政府の決定的な違いは、みずからの主張をみずから実力を行使して実現できないという点にある。つまり、私人相互間に紛争が生じた場合、いかに強力な私人も、仮にその主張に理があるとしても、実力を行使して対抗し、自力でその主張を実現することは禁止されている。これに対し政府はその主張を通そうとすれば、仮にそれが間違っていても、みずからの組織を使って実現できる。憲法上の権利は、他の私人に対抗するためではなく、私人に比して本質的に優位に立つ政府に対抗する、いわば盾として用意されたものなのである。
ところで、差別してはならない、弱い人をいじめてはならない、といった道徳上許されない行為を人権ととらえるのがむしろ一般的かもしれない。しかし、憲法上の権利と道徳教育で語られる人権尊重の「人権」は果たして同じものか。
憲法19条は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と規定する。憲法は良心、つまり道徳的に正しいことを保障するので、道徳的に悪いことを考えることを政府は禁止し処罰できそうにみえる。しかし、憲法の保障する「良心」は、このような道徳とは無関係である。憲法学では「思想及び良心」を一体的にとらえ、その意味を「内心におけるものの見方ないし考え方」とする。つまり、人は心の中で何を考え、何を思い、何を信じても、それを外部に表明して他人に害を与えない限りは絶対的に保障される。あえていうと、心の中でどのような差別意識をもっていても、また他の道徳上はいけないとされることを考えていても、それが言葉や行動として現れない限りは、政府はそれを禁止し処罰してはならない。
それでは政府は何もできないのか。確かに、これこれのように考えないと処罰するとか、教育を通じて、人の心のありようを一定方向に導くこと、つまりマインドコントロールすることは憲法によって禁止される。差別意識をもってはいけないと指示強制することはできない。
しかし、それが内心から外部に飛び出して言葉や行動となり、人の心や身体を傷つけ、またその他の不利益をもたらすようになると、それは国会が作る法律を通して禁止することができ、違反すれば、裁判所がその法律にしたがい処罰できる。
アメリカ合衆国で公民権運動が展開されたことが知られている。公民権運動とは、Civil Rights Movementの訳語で、正確にはCivil Rightsつまり憲法で保障された自由と平等を私人相互間にも及ぼす法律を作ろうという運動である。
憲法の保障する権利は、上で説明したように道徳教育でいわれる人権尊重の「人権」とは無縁の存在といってよい。憲法はむしろ無縁であることを保障しているのである。しかし、憲法が想定し描いた人間行動の普遍的なあり方は、このような保障を侵さない範囲で、私人間にその趣旨を具体的に及ぼす法律を作ることを要請している。自民党政権下で作られようとした『人権擁護法』も、いまの民主党政権が作ろうとしている『人権救済法』も、Civil Rights Act(公民権法)の日本版なのである。
モハメド・アリは、1996年にアトランタで開催されたオリンピック大会で聖火を聖火台に点火し、金メダルを再授与されたが、アトランタは、1968年に暗殺者の凶弾に倒れた公民権運動の指導者マルティン・ルーサー・キング師が生まれた地でもあった。