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国際人権ひろば No.103(2012年05月発行号)
特集 東日本大震災を記録して伝える
だれもが震災を共有できる「3.11」キロク作り
佐藤 正実(さとう まさみ)
NPO法人20世紀アーカイブ仙台 副理事長
市民が撮った震災キロク
震災から間もなく1年が経とうとする2012年3月1日、被災地に住む市民自らが撮った震災記録本が宮城県内の書店に並んだ。
書名は『3.11キヲクのキロク~市民が撮った3.11大震災 記憶の記録』。大手出版社や新聞社が次々と発行する生々しい地震・津波の様子や、被災者の泣き顔を大写しにした震災関連本とは一線を画す。一番の特徴は、サブタイトルになっている「市民が撮った-」という点。写真約1,500点で構成され、そのうちおおよそ4割が携帯電話で撮られたものだ。構図がズレていたり、ピントもあまかったり、通常印刷には使わない解像度の画像もある。しかし、震災の中で「市民が撮った」写真は、マスコミのカメラが入らない(入れない)震災発生後の私生活をつぶさに写し撮ったキロクとなった。
想い出を共有する昭和のキヲク
写真①:昭和31年10月食卓を囲む子どもたち(佐藤昭八郎さん)
私は2006年頃から、一般市民が撮った昭和時代の仙台のスナップ写真を集め始めた。アルバムに大切に保管されている写真のほとんどは、家族や友人との旅行スナップや子どもの成長記録で、家族にとっては何ものにも代えがたい大切な宝物だが、他人から見れば写っている人の関係性も分からず、興味の対象にさえならない写真ばかり。だから、いつも写真の提供者には「これが何かの資料になるのでしょうか?」と不思議がられたものだ。
しかし、一見、普通のスナップ写真でも、見方を変えて、被写体の洋服や髪型、子どもの遊び道具、後ろに写り込んでいる街の風景、ポスター、看板などに目を凝らすと、当時を伺い知ることができる貴重な資料となる。3年かけて約3,000枚の写真を集め、それらを書籍やカレンダー、展示会などでパネル化して人の目に触れる機会を増やした。
2009年6月に民間企業3社でNPO法人20世紀アーカイブ仙台を設立し、翌2010年4月には昭和時代に撮られた8ミリ映像、写真をまとめた「クラシカル センダイ」という本を初出版した。この本の発売後に言われた忘れられない一言がある。「生まれは東京なのですが、この昭和時代の仙台の風景を見ていると、まるで自分の故郷を見ているようです」という、本誌をテレビで紹介していたあるタレントのコメントだ。例えば、①の写真。ちゃぶ台を囲んで食事をする子どもたちの様子。これは昭和31年、仙台に暮らすある家庭の1コマである。障子や茶箪笥が置かれた茶の間、そして男の子と女の子の髪型など、60歳代後半の方々であれば、おそらく懐かしさを感じてもらえるのではないだろうか。つまり、仙台、東京という別の街に住んでいても、一般市民が撮る写真というものには、本来個々人で別々であるはずの想い出が、共有しやすい何かを持っているということが分かる。しかも、それは街の規模には関係なく。
身近な生活情報を伝えたツイッター
3月11日2時46分を境に、それまで非日常だと思っていたことが、日常へと変わった。震災直後は、止むことのない余震とこれからどんな生活になるのか、先の見えない不安にさいなまれた。地震・津波の生々しい映像が全国にライブ中継され、震災2日目からは福島第一原発事故を大々的に伝える報道一色になった。一向に収まる気配のない余震の中で、ライフラインが途絶えた生活を余儀なくされ、食料、給水情報が必要な時にも、ラジオからは原発事故、地震・津波の甚大さ、安否確認を伝えるばかり。生活情報を伝えられることは皆無だった。
そんな中、ツイッター(短文投稿サイト)では唯一、私たちが最も欲していた“身近な生活情報” が次々寄せられていた。開店しているお店情報、炊き出しや給水情報、灯油・ガソリンの給油情報が刻々と画像付きで配信されてきた。市民が相互に発信し合ったこれらの情報は、この時期大いに役に立った。同時に、ろうそくの灯りの下での夕食、住宅地に現れた震災ゴミ集積所の様子など、身の回りの非日常の生活ぶりを、ツイッターがリアルタイムで伝えた。
写真②:2011年3月16日(仙台市宮城野区)銭湯に並ぶ人々。多い日で1日約500人。(佐藤雄一さん)
もしかしたら、これが3.11を残す記録になるのかもしれない…。3月22日(震災から12日目)夜に震災画像の提供を呼びかけた。すると、たった1週間のうちに約300枚の画像が集まった。4月4日にはそれらの画像をもとに、ウェブサイト「3.11市民が撮った震災記録」第一弾を立ち上げた。
震災画像の書籍化を考え始めたのは5月。将来、一次資料として活用できるようにするため、今はありのままの事実のみを記すこと。そして、貞観、慶長時代の先人達同様、未曾有の大震災という歴史に直面した今を記録し始めた。
キヲクのキロク、3つの特徴
原稿を書いている現在(2012年4月)、約160名の方々から約18,000枚の震災画像の提供を受けた。「3.11キヲクのキロク」書籍化にあたり、これらの画像を一から見直し編集作業をしている最中に感じた特徴を3つ挙げよう。
ひとつは、デジカメ、カメラ付き携帯電話の普及がなければ、おそらくこれほどの身近な様子を写した写真は集められなかっただろう、ということ。阪神淡路大震災が起きた1995年当時、普及型デジカメは登場していなかったし、カメラ付き携帯電話が登場するのもその5年後の2000年。特に携帯電話の普及によって“国民総カメラマン”時代となり、震災後の日常を写すツールとして大活躍した。また、デジタル画像データには日時情報が組み込まれているため、間違いのない「日付と時間」を知ることができたこともアーカイブにとってはとても重要な要素だった。
ふたつめは、今回約160名の方々から画像の提供を受けたが、同日時に別々の場所を時系列で見る画像を記録することができたということ。例えば、写真③は地震発生から約1時間半後、仙台駅前を写した写真である。 停電で信号が止まり完全に交通マヒし、車道を歩く人々を写した。同じ頃、大きな津波被害に遭った石巻市では、避難した自宅2階のベランダから津波が一時引いていく様子(写真④)を撮った。ひとりのプロのカメラマンが被災地を訪れ、移動しながら撮影された写真集とは決定的に異なる点だ。
写真③:11年3月11日16時22分(仙台市青葉区) 仙台駅前 信号も止まり交通がマヒ。車道を歩く人々(藤崎芳之さん)
写真④:11年3月11日16時5分(石巻市) 自宅2 階のベランダから見た津波(中山奈保子さん)
3 . 1 1 を共有し、忘れないために
そして、3つめの特徴。これが一番のポイントになるところなのだが、市民が撮ったこれらの画像は、「被災地以外に住んでいる人々にも共有できる」画像なのではないか、と感じたことだ。
生活者という目線で自分の身の回りを写し撮り、何を撮ろうとしたのか被写体の意味を直感的に理解することができる写真は、多くの方々に共感していただける震災写真だと思う。少なくとも、映画のワンシーンと見間違えるような、目を覆いたくなる被災の様子を伝える映像・写真よりはるかに実体験とオーバーラップできるはずだ。
震災から1年が経過した。まだ1年、未だ復旧もおぼつかず、あの恐怖の体験は誰もが忘れたい記憶だ。だとしたら、これらの記録は今はまだ必要のない資料かもしれない。しかし、報道が伝えきれない震災の事実を映し残すことで、防災意識をつなぎ止め、記憶遺産として全国に伝えていくこと。そして、復興までの道程の証として、後世に伝えていくことこそが、私たち被災地の人間の役割だと思っている。
どんな驚愕するできごとも、現実の生活が時間の経過とともに人々の記憶を削り去り、残念ながら少しずつ風化はしてしまう。でも、どうか3.11大震災に興味・関心を持ち続けて欲しい、3.11の教訓を各地で役立てて欲しい。2月25日、ヒューライツ大阪の招きで、「100年後の故郷のために」というテーマでトークをさせていただいた時の皆さんの高い関心を、ずっと持ち続けていただきたいと切に願っている。
約90~60年前に撮られた昭和時代の写真が、懐かしい想い出で万民が共有できるのであるならば、震災写真も100年経っても忘れがたい教訓として共有できるはずだ。