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国際人権ひろば No.103(2012年05月発行号)
特集 東日本大震災を記録して伝える
誰が福島第一原発で働いているのか
小原 一真(おばら かずま)
フォトジャーナリスト
原発作業員との出会い
2011年7月9日、東日本大震災の写真展を大阪で終えた私は、新幹線で一路、福島県を目指した。大阪から東海道新幹線、東北新幹線を乗り継ぎ、約5時間。関東平野を抜けて見えて来た福島県内の風景は、瓦屋根にブルーシートがかけられている以外、原発事故の影響は見受けられなかった。アパートのベランダには洗濯物が並び、人々の日常が感じられた。時速270キロの新幹線の窓からは、放射能の影響は見受けられなかった。
福島駅の改札を抜けると、ロータリーにはタクシーが列をなし、高校生がはしゃぎながら自転車で私の前を通り過ぎて行く。25度を超える熱さの中で、ただ一人、マスク、長袖姿で完全武装している自分は、その当たり前の光景からはみ出しているように思えた。
福島第一原発で働く作業員の自宅に訪れたのは、その日の午後8時を回りあたりがすっかり真っ暗になった頃だった。原発作業員というと、「原発ジプシー」やヤクザといったネガティブな言葉しか連想出来なかった私は、その初めての出会いに少なからず不安を覚えていた。
「震災や事故で職を失った人間を雇いながら、原発での仕事をしているんですよ。県外に避難している家族には心配かけるから原発で働いていることは内緒にしてるけど。社長自ら、先陣切って入っていかないと、従業員がついてこないですからね。自分も率先して現場で働いています。もちろん生活していかなきゃなんないけど、やっぱり皆何とかしたいっていう思いを持ってるから働き続けていると思うんです。地元を離れられないんですよ」
淡々と、しかし熱く思いを語る彼は、震災後の仕事の減少に伴い、原発での収束作業を請負い始めた土建業の経営者だった。原発のニュースが連日報道される中で、顔さえも隠され実態の見えない作業員の存在。それは彼らを想像することの弊害になり、私自身、彼らのことを考えるきっかけの少なさに気づいた。
加害者の元で被害者が働くという事
福島県川内村、20キロ地点
(警戒区域への出入り口)の検問所
「東京電力は最初から嘘をついてる企業で、国もそれに乗っかって嘘をついていたわけじゃないですか。それを信用して、その人たちの情報しか今は無いわけですよね。だから、各市町村がなぜそこまで信用してやっているのか分からない。それに悪いことをやった会社の許可を持って20キロ圏内に入るっていうのがそもそもおかしい。なんであの人たちの許可を得て入らなくちゃ行けないんですか。あの人たちのせいで帰れないんでしょ。あの人たちに警察が協力して、それで入ったら罰金10万円。そんなのおかしいじゃないですか」
福島第一原発で写真取材
8月上旬、作業員の実態を自分の目で確かめるべく、福島第一原発に向かった。20キロ圏内の車中からは、放された牛や割られたガラス窓、伸び放題の雑草、未だ片付けられていない瓦礫が見えてきた
編注1。
午前7時半。 福島第一原発1号機建屋から直線距離で200メートル程北西に位置する免震重要棟に入ると、すれ違った男性の胸ポケットから線量計の警報音が鳴りだした。作業員が飲食を行い、仮眠をとっているその場所も放射能に汚染されている。
午前9時半過ぎ、作業員とともに現場に向かった。全面マスクと防護服の隙間をテープで埋め、綿の手袋を2枚、その上にビニールの手袋を重ねた。靴下は二重に履いて、免震棟の外に出た。20分程経つと、鼻の奥にツンとした痛みを感じた。呼吸が非常に苦しかった。30分程経つと、マスクの装着部が痛み始めた。少しの空気でも侵入させまいと、マスクをきつく閉めすぎた結果だった。1時間が経つ頃には頭部の痛みが限界に達し、マスクを外したい衝動に駆られた。
左から福島第一原発1号機、2号機。8月上旬、両機の
間の排気筒付近で1万ミリシーベルトが検出された。
午前10時半。休憩場所に戻ると仕事を終えた作業員たちが床の上に敷かれた銀マットの上で所狭しと横たわっている。真っ黒い顔に深い皺を刻み込んだ男性。頬の赤いあどけなさの残る青年。年配者が銀マットを占領する中、廊下の端の方で体育座りで、うとうとしている金髪の若者。震災から5ヶ月以上経っても見えてこない作業員の顔がそこにあった。連日、熱射病で作業員が倒れている状況下で、彼らはなぜ働いているのだろうか。どんな思いで働いているのだろうか。私たちの見えない所で、原発の収束に文字通り命をすり減らしている作業員。実体が明らかにされない彼らのことを、生身の人間として映し出したいと思った。原発から戻って来たその日から、私は作業員のポートレート写真を撮り始めた。
原発作業員のポートレートを撮影し続けて
毎時15マイクロシーベルト程の線量下の免震棟内で
作業員は食事や仮眠などをしている。
約半年間、取材を続けてきた中で、メーカーの技術者から末端の作業員まで、さまざまな人間に出会う事が出来た
編注2。私が撮影した大半の人は福島県出身で、家族もいる。そして、彼ら自身も放射能被害によって避難している被害者であった。生活しなければいけない現状と福島を去ることの出来ないそれぞれの想いが原発での日々の業務に足を運ばせていた。 スキャンダラスな報道の前に、私自身、彼らにも私と同じような日常があることを忘れていた。
作業員は語る。「娘のお墓がここにあるんですよ。家族はみんな避難させでも、皆、地元をなんとかしたいっていう思いがあって仕事を続けていますから」 (30代避難準備区域出身)、「現場には若い人もたくさんいるんだけども、出来れば来てほしくない。若い人ってこれからでしょ。だから、ちょっとでも線量の高い現場で代われる作業があればやってる。でも、それはほんとにどうなんだろ、焼け石 に水なのかもしれない。若い人の姿は見たくないよね」(40代、警戒区域出身)
「目に見えるもんじゃないから恐いっていうのはありましたけど、皆がみんな恐い恐いっていってても。誰かがやんなくちゃいけないし、だったらその誰かになればいいんじゃないのって」 (30代福島県出身)
「もしここに家がなければ、県外に行くと思います。でも、自分の親から頂いた土地がここにあるんで。ここを捨てて行きたくないですね」(40代福島県緊急時避難地域出身)
今回の取材で少しずつ見えて来た作業員の姿。しかし、その中で東京電力の社員だけは撮影することが出来なかった。現場から東京電力に対する批判の声もたくさんある中で、福島県出身の東電社員には同情の声も多い。作業員の存在が隠されている状況で、現場の東電社員も同じように隠されていることを私たちは忘れてはいけない。
震災から1年が経過する中で、これから先、何万年に渡って影響し続ける放射能被害は、目に見えないことによって私たちの日常に徐々に埋没してしまっている。そう感じることが日々多くなっている。そして、その目に見えない漠然とした存在が、現場の中と外にいる人間との高い壁を生み、こと原発作業員に関して言えば、彼らを自分とは種類の違う遠いものとして扱ってしまい、それが彼らに想いを馳せることの障害になっているように思う。今もなお、事故の真っ只中にいて、日々被曝を強いられる作業員たち。 彼らがいなければ、事故の収束はありえない。そして、これから収束までの長い年月の中では、今命を授かった生命でさえ、そこで働く可能性がある。
私たちは今、望むと望まないにかかわらず、文字通り命を削る彼らの労働の上に日常が横たわっている。私たちは今一度彼らに向き合う必要があるのではないか。
編注1:取材協力者の特定を避けるため、取材方法などを伏せています。
編注2:筆者の写真集『RESET BEYOND FUKUSHIMA (福島の彼方に)』
(2012年3月発刊)詳細は、http://kazumaobara.com/