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国際人権ひろば No.104(2012年07月発行号)
肌で感じたアジア・太平洋
写真修行の旅 in メルボルン
いざオーストラリアへ
2011年3月10日、東日本大震災が起きたそのまさに前日に私はオーストラリアのメルボルンに降り立った。約4年間、渡豪計画を実施すべく1日ワンコイン(500円)生活を続け、メルボルン行きの航空券を購入後すぐに勤めていた会社の社長へ辞表を提出したのだ。「中央線ヒッピーカルチャー」にもまれながら19歳まで東京の吉祥寺で過ごした。
私は、国際的な写真家グループ「マグナムフォト」のメンバーであるアメリカのマリー・エレン・マークの写真に衝撃を受け、高校卒業後に写真専門学校に進み、報道写真科を専攻して以来写真の虜になった。
ゼミのテーマとして選んだ新宿でドラッグクイーン(派手な格好をしている人)やヤクザ、ゲイたちの写真を撮り続けた。それまでの人生で関わり合うことのなかった人たちと写真を通して交わることはとても刺激的な経験だった。
海外への憧れや興味は子どもの頃に聞いたジャクソン5から始まり、写真学生になってから様々な海外のアーティストを知るなかで大きく育っていったように思う。また両親と2歳上の兄の影響も大きい。そして卒業後に入社した写真関連会社でニューヨークとロサンゼルスでのモデル撮影のオーガナイズをきっかけに海外留学を決意したのである。オーストラリアを選んだのはビザ取得の安易さ、気候、そして安全性を考慮してのことだ。
おしゃれな靴店を経営する笑顔の素敵なオーナー
モヤシ1キロ80円-ベトナム人と中国人の街
現在私が住んでいるフッツクレイという街は15年程前までは殺人、ドラッグ売買などがはびこり地元の人でも近づかない危険な地域だったため、平穏が訪れた今でも名前を聞いて眉をしかめる人は少なくない。引っ越し祝いにかけつけた飲み仲間のサウジアラビア人の友人は、「帰りのバスで誰かに刺されるかもしれない」と怖がって午後7時のバスで帰宅した。
しかし実際は中国人、ベトナム人が作り上げた大規模なマーケットが軒を連ね、見たことのない果物、安い野菜、聞いたことのない言語で溢れるとても興味深い場所である。ちなみに土曜日の大セールにモヤシを1キロ80円で購入して大量にナムルを作るのが最近の趣味である。
私はそんな場所でハウスメイト(中国人・韓国人・日本人)8名と同居している。あり余るほど 広い部屋に同居しているのは大学でビジネスマーケティングを学んでいる4歳年下の韓国人の恋人である。彼は今月、3年間の集大成である試験を終えまもなく卒業となる。
多くの留学生はワーキングホリデー制度を利用して、1年の間に語学学校とパートタイムの仕事を経験して帰国する。また自国で得た仕事のスキルアップのためインターンとして現地の職場で経験を積む人も少なくない。27歳の中国人の同居人も歯科技工士のインターンとしてこちらに4ヶ月滞在したのち帰国するという。
この家のオーナーは法政大学を卒業した韓国人夫婦で、妊娠3ヶ月の奥さんと、ゲームとお酒大好きの旦那さん。彼らの要望で奥さんを“オンニ”、旦那さんを“オッパ”と韓国式で呼んでいる。
学校で初めての課題として取り組んだポートレート
月4万円ちょっとで家賃と光熱費、インターネット代をカバーしているので東京で暮らすより格段に安い。そして同居人8名中なんと5名が3カ国語以上を話すため、時折共に囲む食卓では様々な言語が飛び交う。私の韓国語も日に日に上達しているように思う。このシチュエーションは渡豪前には予期しなかったことだが、思いのほか楽しい。
英語学習とRMITの日々
メルボルンに着いてから最初の4ヶ月は語学学校で基礎英語を学んだ。朝6時からカフェで予習、8時から13時まで語学学校で勉強、14時から20時まで図書館へ行って復習。そんな日々を続けていくと不思議なもので少しずつ耳が慣れ、先生や異国の生徒たちとの会話も成立してくる。
また学校内では英語以外の言語禁止というルールがあり、母国語で話す現場を見られた時点でその日は授業を受けることができない。日常会話もままならない英語力の生徒たちにとっては過酷だが、このルールは有効に働いたと思う。
現在はアートに強いと言われるRMIT Universityという学校で写真を学んでいる。外国からの場合、地元の学生の約3倍の学費を支払っているので、何としてでも多くの知識を身につけたい。3クラス80名の中で外国人学生は4名だ。英語の試験にパスしたとはいえ地元学生に混じって様々な課題をこなすのは容易ではない。しかし、スタジオライティング、写真や映像の編集テクニックやプリント技術など、実際の撮影や作業を通じてクラスメイトたちと少しずつ距離を縮めていく。
学校がスタートしてから4ヶ月、当初25名ほどいた私のクラスが14名に縮小した。その多くが課題の難しさから脱落していったのだ。余談だがその14名中4名はゲイ(同性愛者)である。こちらに来てから何度もゲイパレードやデモを見たし、多くの人が同性愛を堂々と主張しているように感じる。様々な偏見はあるにしても、日本よりは遥かにオープンな環境である。自分に正直に生きられるのはとても幸せなことだと思う。東京の専門学校時代に卒業までゲイである事実を必死に隠し続けたある友人のことを思い出した。
メルボルンに住み始めて最初の3ヶ月間は香港系オージーたちの仲間に混じってパブやナイトクラブに出かけたのだが、その場所の多くがアジア人専用の場所であることに驚いた。特に夜遊びの場所においては白人とアジア人の出入りする場所がはっきりと分かれているのだ。もちろん看板に白人専用と書いてある訳ではないが確実に隔たりがある。そしてそれは地元の人にとって周知の事実のように思う。
ある時訪れたパブで超過人数を理由に入店を断られたが、そのすぐ後に白人たちが入店を許されていた。また電車を待っている時、街を歩いている時に車から卵を投げつけられたこともある。これは多くの友人たちも経験していることである。
とはいえ、個人的にはオーストラリアが特段差別に溢れた国だとも思わない。何故なら私が英語に苦しみながらもなんとか勉強を続けていられるのはオージーのクラスメイトのお陰であり、少なくとも彼らから人種差別的な態度を感じることがない。むしろ課題に真剣に取り組まないクラスメイトへの批判はすさまじい。
オープンを目前に働くアートギャラリーのペンキ屋さん
キッチンハンドからフォトグラファーへ
写真の学校が始まるまでの6ヶ月間はイタリアンレストランで「キッチンハンド」として働いた。人気店であったためかなり忙しく、毎日手に切り傷や火傷が絶えない危険な職場であったが、海外で初めて得た仕事なだけに一生懸命働いた。
インド人とミャンマー人のシェフに指導を受けながら、様々な食材の準備を手伝う。大きなボールでチーズボールやハッシュポテトなどを作ってオーブンで焼いたり、次の日の朝食のサラダ用に大量のトマトをカットしたり、パスタを8割茹でにして100個近いタッパーに振り分けていったり。時給は笑えるほど安かったが、イタリアンフードのこと、オーストラリアのアルバイト事情などとても多くのことを学んだ。英語の下手な私が辞めることを心から悲しんでくれたインド人のシェフのマンビーヤとは今でも良い友達である。
現在は学校生活を続けながらフォトグラファーとして少しずつ仕事を始めている。2012年6月は日本の情報誌用にベトナム人コミュニティーの撮影、またチョコレート会社の広告撮影、そしてウェディングパーティーの撮影などを行う予定である。今後はレストランへの売り込みを始めてフード撮影の仕事にも取り組みたいと考えている。学生の身分なだけにギャランティーは激安だが、全てが自分の貴重な経験になると信じている。
そしてフリーランスのフォトグラファーとして仕事をしながら大学進学を目指す予定である。私はここで過ごす貴重な時間を写真と共に謳歌したいと思う。
Photographer Noe Fujimoto
(http://www.noefujimoto.com/)