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国際人権ひろば No.104(2012年07月発行号)
特集 東アジアの都市の生活困難な人たちの現状と支援
大阪・釜ヶ崎で動き始めた地域福祉とまちづくり
平川 隆啓(ひらかわ たかあき)
釜ヶ崎のまち再生フォーラム
釜ヶ崎の貧困
社会における貧困の課題は、ただ経済的なものだけではなく、人と人とのつながり、つまり地域との関係性や、心の充足感といった日々の小さな幸せなど、一概には捉えられない。そのようなここ釜ヶ崎でも、仕事がない、お金がないということが一つの要因となり、野宿生活を強いられている人は多い。しかしそれだけではなく、孤立や依存といった課題や、社会保障など制度側の課題もあり、背景は複雑化している。特に釜ヶ崎の場合、日雇い労働者のまちとして、日本の高度経済成長期に多くの労働者が集められ、彼らが今にいたるまで決して十分とはいえない社会保障しかないなかで生活をしてきた。そのほころびは、多くの人が高齢期に差し掛かることで野宿といった現象として、加速度的に現れてきた。この構造的な課題が、釜ヶ崎における貧困を生み出してきたのである。少しややこしい話からはじまってしまったが、釜ヶ崎を知っていただくとき、ただ本人が課題を抱えているから野宿に至ったと思うのではなく、その背景には様々な社会側の課題があることを知っていただきたいと思う。
釜ヶ崎と日雇い労働
さて、釜ヶ崎とはそもそもどんなところか、まずは簡単に紹介していきたい。
大阪市西成区の北東部に位置し、近隣には天王寺・阿倍野あるいは日本橋・なんばといった商業エリアや、通天閣のある新世界、動物園や美術館の集まる天王寺公園などがあり、多くの人が行き交う場所に位置している。さらに、鉄道もJR線、南海線、阪堺線、地下鉄線と集中して走っている利便性の極めて高い立地である。ここに、1泊1,500円前後、3畳一間の簡易宿泊所と呼ばれる日雇い労働者向けのホテルなどが建ち並んでいる。
釜ヶ崎は、日雇い労働者が集まるまちとして形作られてきた。1970年前後には日本が高度経済成長を迎え、多くの建設現場に釜ヶ崎から労働者が向かった。その後もバブルや阪神淡路大震災のときなど、公共工事などが出るタイミングでは、数多くの労働者が現場で活躍してきたが、1990年以降は特に、建設現場の機械化、経済的な不況、そして労働者の高齢化などで、仕事からアブレてしまう人たちが激増した。ここで、野宿の問題が社会化されていく。
簡易宿泊所が建ち並ぶまちの一角
最先端を行く地域団体
この変化にいち早く動いたのが、地域・民間である。労働者の運動団体をはじめ、新たな支援団体も1990年以降に数多く生み出された。このような地域の活動団体は100以上あると言われ、その分野も運動、福祉だけでなく、アート、まちづくりなど、幅広く展開されている。
例えば、ひとつの転機として、運動団体がNPO法人化し釜ヶ崎支援機構を立ち上げたことが挙げられる。釜ヶ崎支援機構は、野宿者の寝場所の確保としてシェルター事業や、公的就労のひとつである高齢者特別清掃事業、福祉相談や生活サポートなど、日雇い労働者や野宿生活者をはじめとした様々な支援を事業化して行っている。
また、キリスト教系の団体が連携し、布教はせず支援活動に専念するキリスト教協友会を立ち上げ、ネットワークの強みを活かし、子どもから労働者、生活保護を受給する高齢者などの支援を幅広く取り組んでいる。
いわゆる野宿から畳にあげるための支援だけでなく、地域生活をはじめてからの支援も重要である。居場所づくりやコミュニティづくりなども福祉の分野だけでなく、アートやまちづくりのNPOが活躍し、展開している。
地域で暮らすための福祉
大阪・釜ヶ崎で動き始めた地域福祉とまちづくり。このような状況は特に2000年以降に活発化し、大小様々な団体が生まれ、労働者のまち、野宿生活者のまちから、福祉のまちへと押し上げてきた。ここでの福祉はいわゆる生活保護ではなく、地域福祉ととらえてほしい。確かに、現在、地域に2万人以上いる住民の内の9,000人ほどは生活保護受給者である。それは、2000年以降、野宿生活を強いられている人たちに畳の上にあがってもらうために、簡易宿泊所のままでは生活保護を受給できない大阪で、簡易宿泊所を共同住宅(アパート)に転業する動きが進んだからである。この動きのなかでも、高齢化が進んだ元労働者や生活困難者の人たちが落ち着いて暮らしていけるよう、見守り支援や、談話室などの開設など、一般的なアパートにはない独自の住まいづくりを進めている。居室の多くは3畳一間と狭いが、目に見えない支援が届く安心感が、住まいである簡宿転用アパートや地域には備わっているのである。
炊き出しの様子
見えづらい背景と向き合う
このように、地域福祉の最先端を行く釜ヶ崎だが、昨今は、元日雇い労働者だけではなく、若年の生活困難者の課題も散見されるようになってきた。以前では、日雇い労働のしくみのなかで、うまく役割をあてがわれ、働き暮らしていけていた軽い知的障がいや精神障がい、発達障がいを持った人たちが、建設業が低迷するなか、そのしくみで支えられなくなってきた側面もあるだろう。制度にのらない、手帳が取れないボーダーの障がい者や、刑務所等からの出所者(以下、ここでは刑余者と呼ぶ)など、独特の背景を持つ人たちが、この社会では生活しづらく、生きづらい状況に陥り、支援を必要としている。
事例を挙げるなら、大学を卒業し、会社に就職するも、長続きしないといった発達障がいが疑われる人が、他地域の行政窓口ではその背景を発見されず、釜ヶ崎に来て、地域の支援団体につながるケースなどがある。そこで発達障がいの疑いを見極め、本人のペースにあった就労訓練や医療などにつながることがある。あるいは、窃盗を繰り返し、刑務所を出たり入ったりしている人も、実はただ悪意があるとか、生活に困窮して犯罪をしているというよりは、生き癖のような成育環境や軽い障がいなどが複合的に背景としてひそんでいたりする。この見えづらいポイントに気づき、刑務所で更生するだけでは解決しない福祉的な点にアプローチしていくには、100を超える団体の様々な目で見極め、地域で支えていくネットワークが、釜ヶ崎ではうまく機能しているのではと感じている。
本人と社会の課題を見える化
野宿者支援のきっかけは、野宿生活というはっきりとした現象が、大阪市全域、日本全国で現れたことで社会化し、取り組まれてきた。しかし、若年の生活困難者には、そのような見える化できる現象は乏しい。最近、現代うつという言葉も飛び交うが、これらははっきりと捉えることは難しいであろう。釜ヶ崎では、これまでの地域の取り組みとネットワークを活かして、一人ひとりと向き合い、その人の必要な力になることで、様々な状況に応えてきている。野宿者、ホームレス、障がい者、刑余者、あるいは若年生活困難者などとレッテルをはり、支援しているというのは、あくまで外からの目であり、内、つまり地域としては、一人ひとりを大切にした結果でしかない。そこで、本人側の課題と、社会側の課題に整理し、本人とともにできることと、社会を変えていくことを、両面から取り組むだけの力が釜ヶ崎にはある。
一人ひとりを大切にすると地域が変わる
最近の釜ヶ崎では、まちづくりが一種ブームである。もちろんブームに終わらせてはいけないのだが、大きなターニングポイントに来ているといっても過言ではない。橋本市政になって西成特区構想が出されるなど、地域としてどう動くのか、まちづくりが様々な現場で語られている。
このまちの歴史を振り返ると、労働者が集められ、その対応としてあいりん対策が実施され、地域主導ではなく、施策ありきで動かされてきた。地域としては、まちづくりをしてきた成功体験は乏しい。しかし、生活困難者など人と向き合い、福祉や就労などの支援を積み重ねてきたことでの地域の実践は、大きなものを持っている。まちづくりというキーワードで、より生活困難者も安心して暮らせる都市として、釜ヶ崎をどう発信し、どう変えていくか、地域主体で動かしていくため取り組みが試されている。