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国際人権ひろば No.106(2012年11月発行号)
人権さまざま
幸せの条件
白石 理(しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所長
世界人権宣言 第28条
すべて人は、この宣言に掲げる権利及び自由が完全に実現される社会的及び国際的秩序に対する権利を有する。
同 第29条
1.すべて人は、その人格の自由かつ完全な発展がその 中にあってのみ可能である社会に対して義務を負う。
2.すべて人は、自己の権利及び自由を行使するに当っては、他人の権利及び自由の正当な承認及び尊重を 保障すること並びに民主的社会における道徳、公の秩序及び一般の福祉の正当な要求を満たすことをもっぱら目的として法律によって定められた制限にのみ服する。
3.これらの権利及び自由は、いかなる場合にも、国際連合の目的及び原則に反して行使してはならない。
45.1パーセントの国民が「とても幸せ」、51.6パーセントが「幸せ」と答える国があるという。ヒマラヤのふもとにある小王国、ブータンである。国民全体の幸福度を示す総国民幸福量(GNH)を提唱した国だと聞く。近年盛んに話題になりメディアにも取り上げられた。物質的豊かさを示す一人当たりの国内総生産(GDP)では、ブータンはむしろ貧しい国の仲間である。経済的には豊かでないけれども、幸せに生きることができる社会なのか。幸せとは、一人ひとり、その自覚は異なるのではないか。それでも96.7パーセントの人が幸せという。シャングリラ、理想郷。不思議である。
どのようなときに幸せと感じるのかは人それぞれであろう。あえて大まかに言えば、恐怖や欠乏を持たないで生きることができるとき、自分の望みが実現するとき、自分が大切にされているとき、自分の資質が生かされ、伸ばすことができるとき、生きがいを見つけたとき、そして本来の自分になれたと思うとき、など。しかし、人が幸せに生きるのは、それぞれの個人の課題であるとともに、社会の課題でもある。
世界人権宣言第28条を率直に読み取ろう。だれもが、人権と基本的自由が完全に実現される仕組みをもった社会に生きる権利を持つということ。これはまた、だれもが幸せに生きる条件が整った社会を求める権利でもある。現実には、国内社会でも国際社会でも人権と自由が「完全に実現され」ていないことがあたりまえ。けれども、そんな状態があたりまえというのはおかしい。
貧しさゆえに、人としての尊厳にふさわしい生活ができない人、自分の可能性を十分に伸ばすことができない人、社会から排除されている人がいる。富を持つ人と持たない人の格差が、そのまま「人としての価値」の格差になる。競争に勝つ人の「人としての価値」が、競争に勝てない人、競争に加わらない人の価値より高いと見られる。そんな社会があたりまえであっていいはずがない。
人を大切にする、人権を尊重するというのは、例外の余地のない社会の基本原則である。人権がまもられ、幸せに生きることができる社会の仕組みや制度がどうしても必要である。だれでもこれを求める権利を持つと世界人権宣言は言う。
世界人権宣言第29条1項は第28条と対をなしている。「すべて人は、人格の自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能である社会に対して義務を負う」という。一人ひとりの人権が尊重され、自分にふさわしい生き方が認められ、幸せに生きることができる社会があるかぎり、人はそのような社会に生きる者として義務を負うということ。まず義務を果たしたうえで人権を語れというのとはちがう。この義務について詳しく述べたのが2項と3項である。
世界には、独裁体制の国がある。統治者あるいは集団が、絶大な権力を握る。反対や批判を許さない。軍隊と秘密警察、情報機関を使って市民生活の細部にまで目を光らせ、自由を制限し、情報の内容と流れを操作し、統制する。恐怖と抑圧による統治。そのような社会では、人権は実現されない。国家に対する義務ばかりが強調される。人はひたすら、自分の望み、本心を心の奥底に隠している。信じられるのは、本当の友達だけ。そんな社会では国民総幸福量は話題にさえならない。
また、独裁とは言わないまでも、個人の価値よりも「国の大義」を優先する体制では、「国民教育」や「愛国教育」が、疑問をはさむ余地もなく国家に尽くすことを教えようとする。人権よりも、国民としての義務を果たすことが大切とする。そこでは、人権が国家の必要に応じて制限されるのが当たり前。当然、国民総幸福量は低いにちがいない。上に述べた世界人権宣言の規定が、このような社会で個人が果たすべき義務について述べたものではないことは明らかである。
個人の幸せは社会のあり方と切り離して考えることは出来ない。社会の在り方、社会が目指す方向を決めるのは政治である。市民一人一人が政治に関わり、自由に考え、意見を述べ、選択に責任を持つ。これは、民主主義の原則である。そこには、人を大切にする社会、言葉を変えて言えば、人権をまもり、尊重する社会を実現するために、市民一人ひとりがもつ力に対する期待がある。
少数であっても、ひるんだり、あきらめたりしないでもよい。沈黙してしまって、数を頼む人たちの思うままにならないように。人としての幸せも人権も、数の問題ではないのだから。