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国際人権ひろば No.107(2013年01月発行号)
人権さまざま
罵詈雑言(ばりぞうごん)
白石 理(しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所長
世界人権宣言
第1条
すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神を持って行動しなければならない。
第12条
何人も、自己の私事、家族、家庭若しくは通信に対して、ほしいままに干渉され、又は名誉及び信用に対して攻撃を受けることはない。人はすべて、このような干渉又は攻撃に対して法の保護を受ける権利を有する。
私には三人の成人した子がある。もう私がおせっかいをやくことはない。かつては、子どもの口げんかに割って入ることがあった。けんかで使うことばはフランス語。聞いていて、私には良く分からない、あまり聞いたことがない言葉が盛んに飛び交う。様子からすると互いをかなり傷つけるような言葉らしいということは想像できた。私の仕事の関係で、子どもたちはフランス語の環境で育ち、学校での言葉はフランス語であった。けんか言葉はもちろん学校で習ってくる。
あるとき聞き覚えのけんか言葉を子どもの前で発声練習のように繰り返してみた。子どもたちの反応は予想した通り。してやったり。おもしろかった。諌(いさ)めるように、諭すように、「その言葉は使わない方がいいよ。」「どうして。とても便利な言葉のようだけど。君たちが良く使っているじゃないか。私が使ってまずいことがあるのかな。」「とても汚い、下品な言葉だよ。」「へー。面白そうだ。どういう意味なんだ。」「言えない。」「そんなにひどい言葉か。そんな言葉でお互いにやり合っているんだ、君らは。でも、どうしてフランス語でやり合うんだろう。」「日本語では、パンチがないから。」「それは君たちが知らないだけだろう。そのたぐいの日本語を君たちに教えなかったからね。」日本語を家庭でしか使わない環境で育った子どもたちは、けんかで使える日本語に接する機会はなかったのである。
私がアメリカに留学していたとき、英語で「汚い、下品な」言葉をおぼえた。上品なアメリカ人のおばあさんが、「こんな言葉は、昔は、気の荒い男たちがけんかのときに使っていたくらい。それが今では、若い人たちが、日常の会話で平気で、おおっぴらに使っているのよ。聞いていて恥ずかしさのあまり汗が出てくる」とこぼしていたのを思いだす。私もそのころ「若い人」たちの間で、このたぐいの言葉の使い方を覚え、得意になっていた。結婚して、ごく自然に妻の前でこのような言葉を口にして、「私はそんな言葉を聞くと自分が貶(おとし)められると感じる。私が嫌なことをしないで」と叱られ、たしなめられた。
さて近年のことである。公の地位にある人が、公の場で、あるいは、だれでも知ることができるような形(ツイッターなどインターネットによる情報伝達手段)で、激しく、ぞっとするような扇動的、刺激的言葉を使い、人を攻撃し、辱め、侮り、罵倒するということがめずらしくなくなった。そこには、公人としての品性も、矜持(きょうじ)も自負もない。かつては、口にするのも憚(はばか)られた言葉が、容赦なく叫ばれ、攻撃の武器として使われる。そしてそれで世間の注目を集め、人気をとる。「なかなか言えないことをよく言ってくれた。はっきりしていていいじゃないか」。
インターネットにある匿名掲示板などでは、もう何年もこの現象が続いている。的を定めて、叩きつぶそうとする。まともな批判ではなく、理不尽で卑怯な攻撃である。さらに特定の集団を的に、差別的な言葉や侮蔑的な、汚い言葉を浴びせ、叫ぶ人たちもいる。そこでは、「人を大切にする」、たとえ敵と見る相手をも人として尊ぶという大義がまもられていない。まさに「仁義なき闘い」である。
日本語が、これほどまでに、悪意に満ち、人を容赦なく攻撃し、傷つけることができることに唖然(あぜん)とする。まさに罵詈雑言である。辞書によると、「罵詈雑言」とは、「きたない言葉で、悪口を並べ立ててののしること。また、その言葉。」とある。
最近ある週刊誌が、さる公人の「DNAをさかのぼり本性をあぶりだす」とする連続記事を掲載し始めた。「彼の血脈をたどる取材」をしたという。第一回目の記事を見た。その内容 は、弁解の余地なく差別的であり、当の公人からも激しく抗議され、謝罪を要求された。連載は中止になり、出版社が謝罪した。私が目にした記事は、父親の出自や生き方にまつわることがらが、彼の価値観や政治手法の元となる彼の「人格」を決定しているとするかの如きものであった。根底に潜む差別心理と、卑(い)やしめ、辱め、人格抹殺、見下しなど、人間の中に巣くう負の感性に訴えるものがそこにはあると私には感じられた。罵詈雑言である。
世界人権宣言第1条は、「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神を持って行動しなければならない」という。「同胞の精神」、人に対する言動は、あくまで理不尽にならないような形で行われるべきであり、決して、人の尊厳を損なうようなことがあってはならないということ。「人を大切に」、「人権尊重」から外れてはならないという原則である。