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国際人権ひろば No.107(2013年01月発行号)
肌で感じたアジア・太平洋
ヨルダン生活から見えるもの
本多 須美子(ほんだ すみこ)
ヨルダン国 JICAシニア海外ボランティア
ざっくりと・・・ヨルダン
JICA
1ボランティアとしてヨルダンに赴任することが決まった時、家族や友人たちは「危なくないの?」「大丈夫?」と心配した。シリア、レバノン、イスラエル、エジプト、サウジアラビア、イラクに囲まれ、紛争も多いため危険なイメージを持つ人が多い。1948年のパレスチナをはじめ、90年代にクウェート、2000年代にはイラク、そして「アラブの春」以降のシリアなど、ヨルダンは紛争があるたびに周辺国から難民を受け入れてきた。人口約620万のうち、3分の2がパレスチナ系である。天然資源に乏しく国の大部分を砂漠が占める国。アラブ諸国や欧米とも平和的な関係を築き安全を守ることでその存在を保っている。
一方、モーゼ、キリスト、ヨハネなど聖書ゆかりの場所を始め、石器時代、ナバタイ、ローマ、ビザンティン、十字軍、ウマイヤ、オスマントルコなどの遺跡は数えきれないほどで、気の遠くなるような長い歴史を持っている。また、今でもベドウィンが遊牧を行うワディラム砂漠、死海、アカバなど大自然を堪能したい人にも魅力的で世界遺産4つを誇る観光国である。
一般に人々は友好的で、街ではよく「ヨルダンにようこそ!」と声がかかる。道に迷っても誰かが教えてくれるし、探すのを手伝ってくれる親切な人たちに、私は数えきれないほど助けられた。
90%以上がイスラム教徒で、どこにいても片手に余るほどの数のモスクを指さすことができる。人々の生活は祈りとともにある。モスクから1日5回アザーン(礼拝への呼びかけ)が謳うように流れる。タクシーの運転手やパトカーの警察官が道端に車を止め、絨毯を敷いて祈る。お祈りの部屋が設置されている職場も多い。大きさにしてひとり分の絨毯に座り、神と1対1で向き合っているかのようだ。人が祈る姿はいつ見ても美しい。初めは珍しかったアザーンをBGMとして聞き流すようになった頃、私はヨルダンの生活者になったのかもしれない。
パレスチナ難民とJICAボランティア活動
私は2011年9月から2年間の予定でパレスチナ難民の子どもたちが通うUNRWA(国連パレスチナ難民救済機構)の女子学校で体育教育ボランティアとして活動している。教師、生徒とも全てパレスチナの人たちだ。パレスチナ難民とは、1948年イスラエルから逃れてきた人たちとその子孫
2で、ヨルダンで約200万人が登録されている。政府は彼らに国籍を与えたが、その後の中東戦争で逃れてきた人たちには国籍がない状態が続いている。UNRWAは福祉、保健及び教育の面で難民支援を行ってきた。難民キャンプが数多くあるが、キャンプというとテントを想像するかもしれないが普通の街並みに見える。しかし、インフラの不備、貧困、差別など問題は多い。私は奨学金で青少年に教育支援する団体でも活動している。ある奨学生が「キャンプ内に住所があると仕事の面接に行っても採用されない」と話していた。キャンプを出て生活している人も多く経済格差が広がっていると聞く。
学校教育に美術・音楽・体育など表現教育が取り入れられるようになって日が浅く、授業経験の少ない子どもたちと教える経験の乏しい教師のために授業を通した活動を続けている。日本では考えられないが、7年生になって初めて体育授業を受けたという生徒もいる。個人競技の方が得意な子どもたちに、少ない用具でもできチームワークを要するドッジボールや長縄跳びを導入した。教師には相対評価だけでなく個人の上達過程をみる視点の大切さを伝えているところだ。これまでスポーツイベントを2回行い着実に根付きつつあると実感している。空き時間に「ドッジボールやろう」「スミコ、長縄ある?」と声をかけてくる子どもたちを見ると嬉しい。
任期2年目の現在は専門の体育教師のいない学校へも定期的に出かけて授業を行っている。学校に‘Children have a right to play’(子どもたちには遊ぶ権利がある)というポスターが貼ってあった。家ではきょうだいの世話や家事、仕事の手伝いをよくする子どもたち。学校は心身を豊かにできる唯一の空間かもしれない。私はこのポスターを「子どもたちには体育授業を受ける権利がある」と読み替えている。
活動先の学校での体育授業
女性の立場
元々イスラム圏では女性がスポーツをすることを認めないところも多かった。女子がスポーツする機会を増やし振興・普及に力を入れることは女性の地位向上にもつながる。その意味でもUNRWA体育教師とボランティアは力を合わせている。ある日、学校一運動の得意な7年生が浮かない顔でやってきた。地区対抗バレー大会に出場することを父親が許さないという。私は、「出られるように先生にお父さんと話してもらおうね。あなたも自分の気持ちをお父さんに言った方がいい」と伝えたのだが、父親と話すのが怖いという。家族の中で父親の意向は優先される。そういう生徒が何人か現れた。体育教師によると、実は参加することには賛成なのだが世間体を気にしてダメだというらしい。そんな生徒たちを励ましつつ、体育教師が父親と話して出場できることになり彼女に笑顔が戻った。
スポーツに限らず教育では男女別学のところが多く、結婚式やお葬式は慣習として男女別々の部屋で行われることも多い。
子どもの権利として顕著に表れているのが、父親の国籍を受け継ぐことである。外国人男性と結婚したヨルダン女性やその子ども、人権活動家等が法律の改正を求めてデモを行ったことを新聞で読んだ。ただこれはごく少数で大きな社会的なうねりになっていない。同僚たちと話をすると、「父親の国籍を得るのは普通だよね」という声が返ってきた。職場では校務員以外はすべて女性なので、教育に限らず様々なことを話題にできるのは面白い。
モザイク国家・ヨルダン
ヨルダンは地理的にはヨーロッパ、アジア、アフリカと陸続きで、勢いのある国に次々と統治されてきた歴史から多民族の国である。街を歩いていると、アラブ系、アフリカ系、ヨーロッパ系と多様な人たちに出逢う。最近はアジア系も目立つようになったという。
ある日、パレスチナ難民キャンプにある店で店主と話していると、赤ん坊を抱いた女性が現れた。何を言ったかわからなかったが、店主は女性にお金を握らせた。その後彼が話してくれた。「私は10年前にイラクから逃げてきた。あの女性はシリアから逃げてきたばかりで赤ん坊が病気なので薬代を少しあげた。この近くの何家族か助けている」と。また、同僚たちは不定期に衣類、薬やお金を集め、教職員組合女性部を通して北部のシリア難民15家族を支援している。決して裕福ではない彼・彼女らが小規模ながら新しく来た難民を助けていることに、私は大きな感動を覚えた。「喜捨」の習慣があり、困った人を助けることをごく自然に行う。約1か月間日中飲食をしないラマダンを彼らはいいことだと表現する。「おなかは確かに空く。でも貧しくて食べられない人の気持ちを感じることができる」。
外国人である私はどこの階層にも属さないため、様々な人たちと話すことができる。産油国から遊びに来ている富裕層からスーク(市場)で働く子どもまで。私の住む地域はアジア系住民が多く住んでいる。近所の友人宅では住み込みのフィリピンやインドネシア女性が働いている。月約100~150ドルの給料で家事労働を行う。バスに乗るとスリランカの女性たちと話すことができる。彼女たちは困ったら同じ国の人や大使館に相談すると言っていた。男性労働者はエジプト出身が多くいわゆる3Kの仕事に就いている。また、パキスタンからの農業従事者とも話すことができた。彼らは家族で移住しており、「仕事は大変だけど家族が一緒だからね」と白い歯を見せて笑った。シリアからの季節労働者や難民も収穫時期の農場で働いている。
繰り返すがヨルダンは貧困もあり、移住労働者を雇える層もあり貧富の差が激しい。ビザンティン時代のモザイク画のように人々は肩を寄せ合い、助けあったり反発したりしながら生きている。私は残された任期の間、ボランティア活動や普段の生活を通して国籍、民族、宗教、文化に関係なくもっと多くの人たちと語り合い、この社会に暮らす人たちの生き方や考え方を知りこの国を丸ごと体験したいと思う。この国では、甘い紅茶やコーヒーを片手におしゃべりすることから友好関係もビジネスも始まる。コーヒーブレイクを「フルサ(機会)」と呼ぶが、まさに人と人が理解しあえる絶好のチャンスである。
2:UNRWAの定義による(http://www.unrwa.org/etemplate.php?id=86)