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国際人権ひろば No.109(2013年05月発行号)
特集 3.11から3年目の南相馬市
「3.11」2周年を南相馬で過ごして
無人の住宅街-小高区
2013年3月11日午後2時15分、福島県南相馬市にある市民文化会館で「東日本大震災追悼式」が始まった。会場となった大ホールは1,000人ほどの人で席が埋まった。たくさんのテレビカメラが階下のステージの祭壇に向いていた。
市民歌斉唱、桜井勝延市長の式辞と続いたあと、震災が起きた2時46分が近づくと東京で行われている国主催の追悼式の中継映像が、大スクリーンに映し出され始めた。中継が終わると市の追悼式に戻り、市議会議長と遺族代表の言葉、献花へと続いた。
式の終了後、会場入り口に設置してある参列者の記帳に目を通すと、全国各地からの参集がうかがえた。開かれたページだけでも複数の関西の住所が目に入った。1,000人を超える人が犠牲となった南相馬市。その親族や近しい間柄の人が2周年の追悼のために駆け付けていたのである。
筆者は前日の3月10日の夜、仙台を経由してバスで南相馬市に来ていた。地震、津波、原発事故という3重の大災害で上野-仙台をつなぐJR常磐線が寸断されたままだ。不便になった事態を受けて、仙台-南相馬間を2時間で走る路線バスが開通している。
「追悼式」が始まるまでの午前中、筆者は小川尚一・南相馬市会議員に会い、市の復興に関する課題について話を伺ったあと、小高区を車で案内していただいた。小高区は、震災後は「福島第一原子力発電所」の半径20km圏内に位置することから、立ち入り禁止の警戒区域に指定されていたが、12年4月に避難指示解除準備区域に再編され、人びとの昼間の出入りは自由になっていた。電気は戻ったが、水道は通らず、生活はおろか年末年始の限定期間をのぞいては宿泊することも許可されないままだった。見かけるのは工事関係者と自宅などの様子を見に来た住民だけだった。地震で倒壊したり、津波で流された家屋も多いが、街の中心部では外見上は損傷のない家々が軒を連ねていた。郵便局は営業停止状態のため、間違って投函されないように街中のポストにはガムテープが貼ってあった。(13年4月10日、2年ぶりに窓口業務を再開したという)。
震災が発生した年の7月、筆者は、部落解放同盟大阪府連合会が組織した「南相馬市復興支援大阪ネットワーク」による第3次ボランティア隊を募集した時、手をあげて参加した。田畑のガレキ撤去や遺留品の洗浄・保存などの作業に加わってきた。当時は警戒区域であった小高区に通じる道路には警察が常駐し立ち入り規制をしていた。海岸線から3キロ以上も離れた畑に津波によって押し流されたままの漁船の数々に驚いた。その際、小川市議に案内していただいたというつながりができたのだ。今回は、筆者にとって2度目の訪問であった。
追悼式の夕方、テレビニュースで、商店街に街灯がともっているけれど、無人でひっそりした街並みが生中継されていた。「警戒」は解除されたものの、仮設住宅などに避難している住民が帰還するまでの遠き道乗りをおもんばかった。
信号が灯る無人の小高区(筆者撮影)
仮設住宅での癒しと交流
3月12日、筆者は、鹿島区にある仮設住宅の4カ所の集会所で被災者向けに無料の常設サロンを展開する今野由喜さんに、その活動のようすを案内していただいた。今野さんは震災前、電気関連の会社を定年退職し、小高区の家で3世代一緒に暮らしていた。家業の米作の傍ら行政区の役員や環境を守る活動にも参加していたという。
今野さんは車の運転中、想像を絶するほど高い「水の壁」に車ごと流された。幸いにも九死に一生を得た。一家も全員無事であった。しかし、津波で自宅は流失したうえ、警戒区域となった小高区の住民約13,000人と共に避難を余儀なくされたのである。
国際協力NGOである「日本国際ボランティアセンター」(JVC)の支援を得て、2011年12月に「つながっぺ南相馬」を設立し、小高区の住民が入居する鹿島区内に設置された仮設住宅集会所4カ所(1ヵ所は別団体の支援)で、被災者向けサロン活動を始めた。2012年4月からは小高区塚原の行政区長として、市役所のある中心部の原町区内に仮住まいをしながら地域の復興に関わる活動に取り組んでいるという活動的な人である。
筆者が訪ねた日の4カ所の集会所では、編み物、パッチワーク、折り紙などのカルチャー・クラスやエステ・マッサージが行われていた。各10数人ずつ、比較的高齢の女性が多く集まってきていた。男性の利用者もいる。各集会所のホワイトボードには、歌謡教室や太極拳、輪投げ大会といったイベントの予定が書き込まれていた。前日に到着したという大阪体育大学の学生ボランティアが数人ずつ各集会所のプログラムの輪の中に入っていた。今野さんは、入居者が自主的な活動を始めることを期待しながら、現在は入居者や外の人たちとの交流機会を提供しているのである。
170戸を擁する塚合という仮設住宅の集会所で会った後藤久子さん(77)は、阪神・淡路大震災の後、衣料品などの救援物資を地域で集め、それらを積んで神戸に向かう大型トラックを小高区で見送った、と18年前を振り返った。後藤さんの家も津波で流されたという。
千倉仮設住宅のサロンに集まる人たち。若者は大阪体育大学生(筆者撮影)
海岸線で津波を体験したある女性は、今でも海を見るのが恐怖だと語った。一方で、山は放射能の濃度が高くて怖く、安心して住める場所がないという。かといって、高齢になったいま県外に避難しないで故郷で暮らしたいというジレンマをかかえている。実際、遠方で避難生活していたけれど、南相馬に戻ってきた高齢者は多いようだ。サロンのスタッフをしている女性は、静岡県の持ち家で20年以上暮らしていたが、避難してきた80歳の母親が強く帰郷を望んだため、根負けし、家を売却して母親と共に仮設住宅にUターンしてきたという。
「概していえば、シルバー世代は帰郷を望み、現役世代は慎重を期して『いまは帰れない』と判断している。この先、若い人たちが避難先で生活基盤を築いていけば帰ってくることは期待できなくなる。復興は時間との戦いになっている」と今野さんの焦躁は募る。しかし、「地震や津波で破壊されたインフラの修復は進んだとしても、ガレキの仮置き場も決まらず、地域の除染も始まっていない現実を前に、帰還に慎重な人を説得することはできない。よそで避難するか、帰郷するかの判断はそれぞれ個人に押し付けられている。夫婦や家族の間でも考えの違いが埋められず、離散状態の家族もある。国としての道筋を早く示してほしい」。
「そうはいっても今日から震災後3年目。働ける場をつくり、帰りたい人を受け入れるだけの『のりしろ』を早くつくっていかなければ」と今野さんは期待を込めて語った。
差別や不安と向き合う高校生
原発被害は、もとの「安全」な状態に戻すのが極めて困難だ。筆者は、大阪に戻る13日の早朝、地元のNGOのスタッフの厚意で、再び小高区を車で周回した。住宅が集まる地区の地表では線量計は毎時0.2~0.6マイクロシーベルトを示す程度であったが、道路の脇の林に落ちた枯葉の上では、7~10マイクロシーベルトという高線量に達する場所があった。高い値を示すのはいずれも家屋のない場所だったが、道端に高い放射線が控えている環境は確かに不安が募ってくる。一介の訪問者である筆者ですらそう感じた。近隣地域に住んでいる人たち、とりわけ感受性の強い若い世代は不安を背負いながら暮らしている。
震災直後に政府が決めた緊急時避難準備区域からわずか1kmに住む当時高校1年生だった相馬高等学校の放送局員のひとりが身近な人々の不安をレポートしたラジオドキュメントがきっかけとなり、「高校生の生の声を舞台に」とオリジナルの演劇作品「今伝えたいこと(仮)」が制作された。脚本は女子生徒たちが自らの体験を話し合ってストーリーを組み立てたという。「3.11」を境に彼女たちを覆い続ける原発事故と放射能への不安から未来に希望を見出せない「絶望」を描いた3人の配役による演劇だ。福島だけでなく東京や京都などでも上演している。
震災後、インターネットを駆け巡った、福島の人たちと放射能を結び付ける差別的な書き込みへの怒り。将来の結婚や出産に対する不安。原発事故で失った自由。彼女たちはストレートに語り合っている。そうしたひとつひとつの叫びは、原発の危険性を看過してきた大人たちへの鋭い突き付けなのである。原発事故がいまだ進行中であることから、タイトルには(仮)を付けたままにしているという。
大阪と福島との「温度差」
福井県の大飯原発3号機が再稼働した1週間後の12年7月8日、ものものしい警戒が続いていた。(筆者撮影)
大阪と南相馬を始めとする福島との距離は遠い。その距離感が原発事故への警戒を希薄にしているのかもしれない。大阪に住む私たちにとって、日々の放射線量の変化は気にならない。一方、福井県にある大飯原発は12年7月以来、国内で唯一再稼働している。まるで何事もなかったかのように、崩壊したはずの「安全神話」にいまだに支えられている。運転差し止めを求めた地元住民らによる仮処分申し立ては、13年4月、大阪地裁に却下された。しかし、原発が稼働する限りは不安の終わりが見えないのではないか、と南相馬の現実から考えている。