特集 表現すること
「鬱積したなにかわからないものが胸の奥からふーっと抜けていくのを感じた。少し気が楽になったかな・・・」そう言って笑顔で穏やかになったシニワース(当時16歳)の目が私をみつめる。
シニワースは今、南インド・バンガロール市内にあるボーンフリーアートスクール(以下ボーンフリー)で暮らしている。ボーンフリーには、シニワースのように家族や社会の保護を受けることができなかった子どもたちが一緒に生活をしている。私たちおとなは、ここで子どもたちと出会うと、彼らの過去を全く感じさせない勇気と元気をたくさんもらう。インドには、幼い頃から児童労働者として「子どもの権利」を奪われて生きている子どもたちが1億人以上いる。インドはブリックス(BRICs1)の一員として、経済発展を成し遂げたことで話題となっている。しかし、この国では5人のうち2人が字を書くことができず2、5人に2人が初等教育(インドでは8年生まで)を終えることができない3。私の定義する児童労働とは「働いても働かなくても、たとえ路上で過ごしていても、義務教育を受ける権利がある子どもが学校へ行っていない状態」である。インドでは1986年に児童労働禁止法が成立し、14歳以下の子どもが13種類の職種と52種類の作業過程で働くことを禁止している。しかし、国際労働機関(ILO)が児童労働の規制に関して定める「最悪の形態の児童労働4」を禁止した第182号条約や「最低就労年齢」を規定したILO第138号をインドは批准しておらず課題が山積みである。
バンガロール市の人口およそ800万人のうち、路上生活をする子どもたちは8万人と言われている。児童労働など子ども全般の問題に取り組むNGOは約40あり、多いところで200人、少ないところで20人ぐらいの子どもたちを保護し、衣食住や職業訓練の提供、学校教育の保障をしている。たとえNGOが最大で8000人の子どもを保護したとしても、それはバンガロールにいる子ども路上生活者全体の10分の1にしか過ぎない。子ども路上生活者の数だけ保護できるNGOの数を増やすことは現実的に不可能であり、やはり別の解決策を見出していかなければならない。無論、教育制度を改善する、絶対的貧困層をなくしていく、女性差別やカースト差別と闘っていく、という具体的な政府政策が絶対必要不可欠であることは言うまでもない。
ここで重要なのは「私たちの“固定観念”を変えること」である。例えば、「貧しいから子どもは家族を支えるために働かざるをえない」、雇い主は子どもを家事労働させながらも「貧しい子どもを自分が引き取り衣食住を提供し、むしろ助けている」などという考えである。しかし、実は働いているから読み書き計算が出来ないため、おとなになっても安定した職業に就くことは不可能である。すなわち貧困の連鎖が引き起こされている。「子どもを働かせてはいけない。子どもは等しく学校で学ぶ権利がある」という考え方こそ当たり前にしていかなければならない。今最も必要とされていることは児童労働に対する一人ひとりの意識大変革である、とインドに11年間暮らして思う。
ボーンフリーアートスクールでのダンスのクラス。テーマを持ちながら楽しく学ぶ。中央は筆者。
ボーンフリーは、第一に、社会にはびこるこのような意識変革を「アート」を通して起こしたいと考えている。アートには人間に考えさせる力があり、無意識を意識化させるエネルギーを持っている。どんなに貧しい子どもにも教育の権利を、社会全体が保障する義務があることをアートを通し訴えている。私が創作したダンスはすべて子どもたち自身の体験を基にした児童労働がテーマである。さらに女性差別への警鐘も取り上げている(作品「風車(Windmill)」)。また、ダンス作品「出会い(Encounter)」では「私たちが児童労働者やストリートチルドレンを路上で見かけたらどうする?」という問いかけを行っている。社会テーマを扱った作品をボーンフリーで発表し、人々に考えてもらいたい。また作品を見たアーティスト自身も刺激を受け、社会における課題に取り組んでもらいたいとも願っている。
第二に、アートによる子どもたちへのエンパワーメントを目指している。上記のような作品に出演し、公共の場でパフォーマンスすることで自信をつけること、自分のアイデンティティを見つけることも重要である。6歳の頃から働き、雇い主から電気ショックの虐待を受けたヴェンカテシュも、将来ダンサーになりたいと思っている。彼はパフォーマンスを重ねるたびに自己確立を行っている。父親の借金を返すためにココナツを切り売りして働いていたスブラマニは、ボーンフリーに来た頃は学校へは行きたくないと頑なに拒否していた。しかしある時奴隷をテーマにした演劇をボーンフリーでしたところ、演劇に目覚め生まれ変わった。その後、中学校へ行き、現在高校2年生の彼の夢は「自分のスラムにステージを作ること」である。
第三に、アートによるセラピーを私たちは信じている。13歳のラクシュミは長い間片方の耳が聞こえなかった。それは不衛生な路上での生活のため耳に膿がたまり鼓膜が破れていて、手術が必要という診断がされた。さらに彼女は村に残してきた小さな弟に会いたいという思いが募り、精神的にも不安定となった。そんな時、彼女に一本のフルートが手渡された。最初のピーピーという騒音も、やがて正確なリズムを持ち、美しい音色となった。音楽が彼女の緊張を少し和らげリラックスへと導いている。
前述のシニワースは、ある日家に帰ると突然母親から、「わたしはおまえの母親ではない。ごみ箱に捨てられていたお前を拾った」という驚愕する事実を突き付けられた。16年間、彼は何の疑いもなく実の母親と信じて生きてきた。彼が幼い頃父親が亡くなり、母親が再婚、しかし、“義理”の父親から虐待を受けて育った。彼は8歳の時、家を飛び出して路上で生活をするようになる。路上ではゴミ拾い、盗難からヘビー級のドラッグまですべてをやった。寝ていた自分の所に、真夜中警察が来て暴力を振るわれたことも何度もあったという。現在分かったことは亡くなった父親も育ててくれた今の母親も実の両親ではない、ということであった。彼が動揺している時こそ私は「アートの起こす力」を見たかった。私は彼が今どんな思いなのか、自分が感じるままに動いて欲しいと頼んだ。音楽をかけず、彼と私だけの空間には静寂があった。とまどう彼に、「踊らなくていいんだよ。これはいつもやっているダンスのクラスじゃないの。ただ、目をつむって感じていることを表現してみて!動かなくってもそれは一つの動きだよ」と言葉をかけた。また「君は今虎。虎だったらどうやって今動きたい?」と。すると、シニワースは少しずつ自分が思う動きを始めた。それは激しい動きではなく、慎重に自分の動きを確かめるような感じであった。親に捨てられ心の底から傷ついたシニワースを癒すことができたのは、言葉以上にダンスであったかもしれない。その時ダンスによって心が解放され、やがて心と身体が統合されていくところにアートセラピーの力を感じた。
「出会い(Encounter)」。学校へ行く子どもとゴミ拾いをする子ども。「世界児童労働反対デー」の日に初めて舞台に立つメンバー@バンガロール市内
深い安らぎを心の病を抱える人にもたらすアートは、またその人の自己形成を助け、さらには自立させていくことがボーンフリーの活動で明らかになってきた。ボーンフリーで育った子どもたちの中には2013年8月の時点でプロのアーティストとなっている若者が数名いる。アートを通しての人と社会を変革するボーンフリーのチャレンジはまだまだこれからも続く。このような活動を日本社会で紹介し、支えるために2013年8月、「ボーンフリーアートJapan」を立ち上げた。
ボーンフリーの試みを日本の教育や心の癒しの現場などでも活用できるのではないか。今後私はダンス・ムーヴメント心理療法士を目指し、活動したいと願っている。
注)
1: ブリックスとは経済発展がめざましいブラジル(B)、ロシア(R)、インド(I)、中国(C)の4カ国の総称。投資銀行ゴールドマン・サックスのエコノミスト、ジム・オニールの投資家向けレポートで初めて使用された用語。
2: インド国勢調査委員会HP;http://censusindia.gov.in/Census_And_You/literacy_and_level_of_education.aspx、2013/09/05 アクセス。
3: Rupon Basmatary, International Research Journal of Social Sciences, 2012年12月発行 www.isca.in/IJSS/Archive/v1i4/5.ISCA-IRJSS-2012-061.pdf、 2013/09/05 アクセス。
4: 強制労働、人身売買、児童買春、児童ポルノなどに18歳未満の子どもが関わる労働
筆者は2013年まで、ボーンフリーアートスクールの共同代表を務めるかたわら、ヤナ・ルイス・ダンスカンパニー・メンバーとして活動しながら、クラシック・バレエ・ルイス・ファンデーション(バンガロール)にてHIV/AIDSの子どもやスラムの子どもたちにダンス教育を行ってきた。