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国際人権ひろば No.113(2014年01月発行号)

肌で感じたアジア・太平洋

パレスチナ再訪で体感した「ゼロライフinパレスチナ」

井坂 智人(いさか ともひと)
大阪大学国際公共政策研究科博士前期課程、ヒューライツ大阪インターン

 3年ぶりのイスラエル入国

 
 2013年11月2日、私はイスラエル/パレスチナの地に立った。3年ぶりである。そしてその感慨を覚える暇も無く、私は早速「イスラエルの洗礼」を浴びることとなった。飛行機を降りた直後、私は道すがらの空港スタッフに制止させられ、パスポートの提示を求められたのである。
 イスラエルの入国検査はその厳しさで悪名高い。特に、切れ目のアジア人、一人旅、バックパック、髭、長髪といったその時の私の風貌を見れば、確かに声をかけたくもなるかもしれなかった。しかし、私には実際に声をかけられたことに悔しさを覚えるだけの理由があった。当日の私は、サンダルやTシャツといった「若い活動家」を連想させる格好ではなく、襟付きのシャツと革靴という「落ち着いた感じ」で、「パレスチナ問題とは全く別次元で生活している平凡な人間です」という雰囲気を自分なりに演出し、空港スタッフに絶対に怪しまれないように工夫してきていたのである。まさに準備万端ともいえる対策を講じていたにもかかわらず、結局声をかけられてしまった私の戸惑いと動揺は、本当に想像を絶するものであった。
 
 

 厳しい入国審査

 
 イスラエル入国審査の際、パレスチナに関する話は御法度である。イスラエルの入国管理において、入国後にパレスチナに行こうとする人物は、イスラエルの国家の安全保障上の潜在的脅威とみなされる。そのため、実際に旅行者がパレスチナに行く何かしらの動機(たとえボランティア活動などであっても)を有する場合は、そのことが見透かされないように工夫を凝らす必要がある。
 今回、私は入国審査官に「3年前にイスラエルに来て以来、テルアビブのビーチの美しさとナイトクラブの熱狂が忘れられないんだ。肌に合うというか、とにかくイスラエルが好きだ。パレスチナのことはよくわからないけれど、とにかくイスラエルが好きだ。パレスチナなんて危ないところに行くわけない」といった様なことを入国の理由として告げたのだ。臆病な私にとって、これくらいのことを言っておかないと不安で仕方がなかったのである。同時に、イスラエルを褒めれば褒めるほど、心の不安が高ぶっていくのが自分でもわかった。
 もしパレスチナ関連の本を所持していることなどが見つかってしまった場合、その時点で旅行者は文字通り荷物も身も心も素っ裸にされ、最悪の場合は「入国拒否」のスタンプをパスポートに押されることになる。つまり、歴史的な差別を乗り越え、ユダヤ人がようやく手に入れたユダヤ人安住の地イスラエルにとって、その「正当性」を揺るがすパレスチナの存在は「鬼門」なのである。イスラエルの厳重な入国管理には、パレスチナの存在を根本から否定するイスラエル国家の姿勢が見え隠れしている。
 私のパスポートにはかつて旅したシリア入国のためのビザが貼ってあったため、特別に多くの尋問を受けるという冷や汗をかく一幕があったものの、私は何とか無事に入国を果たすことが出来たのである。
 
 

 ジハードとの再会

 
 私は空港から出ると、心の中で「アルハムドゥリッラー(アッラーのお陰)」と呟きながら、早速パレスチナ中部の都市ラマッラ(Ramallah)に向かった。友人のジハードに会うためである。
 ジハードは3年前に出会ったパレスチナ人である。英語力が乏しい当時の私にとって、仲が良くなる人たちもまたでたらめな英語を話すパレスチナ人が多かった。その中でも、特別に思い入れがあるのが、このジハードであった。ジハードは当時、「アコモデーション(accommodation=宿泊先)」という私の知らない英単語を知っていたのである。知っていたばかりか、格好良く「今日は俺のアコモデーションに泊まりにこないか?」といった感じでさらりと語ってきたのである。私は、「アコモデーション」という言葉の響きに、「英語ができる人はやっぱりボキャブラリーが違う!」と感心したものだ。そして、ジハードの英語力は私のそれとほとんど同レベルだと感じていた私にとって、この言葉によって明らかになった語彙力の差は、私の自尊心をひどく傷つけ、彼の存在を愛憎入り混じる忘れられない存在にしたのである。それから3年経ったいま、「ジハードの英語、こんなに下手だったのか…」と寂しくなるくらいの差がついてしまっていたのだが、こうした経緯も含め、初めて出会ったときから彼は何故か気の合う、妙に気になる存在なのである。
 私は、ラマッラにある少しイケてるカフェ「スターズ&バックスコーヒー」で待ち合わせをし、ジハードとの3年ぶりの再会を果たした。話は尽きなかった。しかし、たった3年のあいだなのに、ジハードの顔には少し若さが無くなったような気がした。ジハードは感慨深そうにある言葉をつぶやいた。「ゼロライフ」。
 
写真1スターズ&バックスコーヒーのメニュー(p11).jpg
「スターズ&バックスコーヒー」という店名のコーヒーチェーンのメニュー(ちなみに本家スターバックスコーヒーはイスラエル支援企業として、国際的なボイコットキャンペーン(BDS)の対象になっている)

 

 「ゼロライフ」

 
 この「ゼロライフ」という言葉は、彼から3年前にも聞いた言葉だ。これは、被占領、分離壁、チェックポイント、高い失業率、終わらない紛争といったパレスチナ人が直面している厳しい暮らしを端的に表している言葉なのである。
 現在、彼はラマッラを拠点にするラジオ局でDJの仕事をしている。慎ましくも楽しそうに、仕事や家族、恋愛のことを話す彼の姿には、一見すると日本の若者と変わらない普通の生活があるように思える。彼には、日本では培えないような素朴な人間味や豊かさを感じることさえある。しかし、パレスチナ人であるジハードの「普通の生活」とは一体どのようなものだろうか。
 どのような社会においても、生活の不安や苦しさというものは誰しもが抱えている。しかし、ジハードの暮らしと私の暮らしとの間には大きな違いがある。それは、「被占領」である。私の暮らしには、人間が人間として人間らしい暮らしをするという前提があり、それが守られなければならないという了解もある。しかしパレスチナにおいてその了解は、「セキュリティ」というイスラエルの政治的理由によって厳格に制限され、また「テロリスト」という言葉によって驚くほど簡単に壊されてしまう。そして、イスラエルの目に映る「パレスチナ人」とは、楽しそうに人生を語るジハードの姿でも、私がこれまで会った多くの世話好きで親切なパレスチナ人たちの姿でもない。そこに映っているのは、イスラエル国家の安全を脅かすただひたすら危険な「パレスチナ人テロリスト」の姿だけなのである。
 占領されているパレスチナ人は、占領政策に対する自らの異議申し立てすらも「テロ」としてイスラエルに一蹴される状況にあり、その生活の全てはイスラエルの意思によって左右される。こうしたイスラエルの占領下で生活するジハードと私の「普通の暮らし」を比較するとき、彼がつぶやいた「ゼロライフ」という言葉には「絶望的な重み」がある。パレスチナに広がる厳しい現実を前に、私はジハードの言葉にただただ圧倒され、彼のいう「普通」にハッとさせられたのである。
 
写真2ジハード一家と(p11).jpg
ジハード一家と。筆者(中央)の隣に座っているのがジハード。
 
 

 私とパレスチナ、パレスチナとイスラエル

 
 「被占領」という境遇に置かれても強くしたたかに、そして優しく生きるパレスチナ人の姿は私の心を打つ。そして、ジハードがどれだけ私とは異なる歴史・文化・宗教的背景を有していても、私と彼の間には強い絆と友情があり、驚くほどたくさんの「なんだかわかる」という感覚を共有していると感じる。そう考えると、イスラエル人とパレスチナ人という二つの民族は、歴史的にも宗教的にも同一の系譜を持つのであるから、本来より強い絆で結ばれうるはずだ。
 しかし、現実の場面においてそうした両者の「近さ」は、その「近さ」故に常に紛争の種を蒔き続けてもいるのである。暴力の連鎖によって生み出された相互不信の感情は、「占領」と「テロ」という現実の中で、容易に排他的感情、対立、衝突へと発展してしまうのであろう。
 今回の訪問でも、パレスチナ問題の解決は何も見えてこなかった。ただ目の前に広がっていたのは、お互い平和を求めているのに、一向に平和が訪れないという不可解な状況だけであった。2013年、イスラエル建国及びパレスチナ難民の発生から65年、ヨルダン川西岸地区の占領から46年、「オスロ和平合意」の締結から既に20年が経過した。ジハードの「ゼロライフ」は、一体いつまで続くのだろうか。