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国際人権ひろば No.114(2014年03月発行号)
肌で感じたアジア・太平洋
シンガポール発 人道支援の現場:フィリピンを襲った台風30号の緊急人道支援を中心に
石関 正浩(いしぜき まさひろ)
シンガポールNGO 「マーシーリリーフ 」海外事業部シニアマネージャー
福島とフィリピンでの光景
海岸沿いを走る国道脇の畑に、トラックが横転し、僅かにあるコンクリートの建物も屋根がめくれ上がり、建物のひしゃげた骨組みだけが野晒しになっていた。2013年12月、フィリピンのレイテ島でこの光景を見て、私は同年1月から3月にかけて復興支援で訪問した福島県南相馬市(当時避難指示解除準備区域だった小高区)での、私の同僚は2004年スマトラ島沖地震緊急人道支援での光景を思い出した。
国道分岐点の植え込みに臨時に作られた埋葬場所。私の娘と同じ10歳前後と思しき少女が、墓標を見つめて立っている。見つめる先の5本の墓標には同じファミリーネームの名前が記されている。少し離れたところにある小さい墓標の前には、熊のぬいぐるみが手向けられていた。心が痛む。
2013年11月8日フィリピン中部(ビサヤ地方)を直撃した台風30号は、死者行方不明者7,986名、被災者1,607万人余に上り、各地に風水害の爪痕を残した(2014年1月29日フィリピン政府発表)。
厳しい暴風雨だったのだろう。椰子の木が、強風で全ての葉を剥ぎ取られ、幹が途中で折れ墓標のようになっているのもあれば、根元から倒れたものもあった。台風30号上陸地点レイテ州ドゥラグでは、高圧電線鉄塔ほどの高さのある電話中継塔が中折れし、折れた鉄塔先端部は、近隣の家を押しつぶしていた。台風が最初に上陸した東ビサヤ地方のサマール島やレイテ島では、強風だけでなく、高潮でかなりの集落がやられた。高潮といっても、被災者によれば、強風やうねりとあいまって、2~3メートルほどの津波のような大きな波となって、沿岸部を襲ったとのこと。高潮が引いた後、木の枝にイカが引っかかっていたとの話は、海辺の集落でよく聞いた。
私が働くシンガポールのNGO マーシーリリーフでは、台風30号が南太平洋上に位置していた11月5日からモニタリングを開始し、8日のフィリピン上陸当日は、10月15日に発生した同国中部ボホール地震の救援に入っていたチームが、そのまま台風被災地に向かった。
2013年12月、レイテ州パロにて
支援の準備-NGOは「借り物競争」
マーシーリリーフは、数少ないシンガポール生まれの人道支援NGOだ。これまでにアジア23カ国で緊急人道支援を行ってきた。お国柄かNGOでもコスト感覚がしっかりしている、そして多民族多宗教国家で政治的中立と見られるためか、いろいろな国や地域で活動してきた。また、シンガポールという地の利もあるだろう。航空路のハブで、東南アジアはもとより、南アジアや中東にもアクセスがいい。スタッフの中には、地震や台風といった自然災害発生リスクが低いシンガポールなのだから、厳しい状況に置かれた隣国には手を差し伸べるのが私たちの役割との気概を持った者も多い。私は、2012年7月から働き始めた。連れ合いがシンガポール出身でもあることから同国で職を得た。これまでのフィリピンやカンボジア、日本においてNGOで働いた経験を活かすことのできる仕事に就けたことは幸運だと思っている。
話を「緊急人道支援の準備」から進めたい。先ずは、被害状況を確認しながら、優先順位が高いと思われる地域やニーズの絞込みをいろいろなルートを使って把握する。ボホール地震救援チームが台風30号の緊急救援を終え11月9日に戻り、本格的な一次チームの派遣準備を進めた。一次チームはニーズの確認や物資調達、現地までの輸送手段の確保を行う重要な任務。私は、12日にシンガポールから現地入りした一次チームをシンガポールからバックアップした。お金がなくては活動もおぼつかない。募金担当チームも動き出した。
マーシーリリーフのような総勢15名ほどの小規模NGOでは、情報や人員をはじめ、人道支援に必要なものが最初から全て揃っているわけではない。NGOは「借り物競争」。いろいろなネットワークを活用する。台風30号被災者支援では、フィリピンの友人ネットワークに大変お世話になった。例えば、被災地の一つであるパナイ島出身者ネットワークで紹介された医師からは、医療ニーズの高い地域、医療チームの編成や人数など、最新かつ的確なアドバイスを貰い、限られた時間の中で医療チームをニーズの高い地域に派遣する上で役立った。
2013年11月アクラン州カリボ市内でボランティアと支援物資の詰め込み作業(中央が筆者)
支援現場で
私は11月と12月に2回現地に入った。台風30号の足跡を辿るように、一番の被災地レイテ島、そしてパナイ島やパラワン島でも支援を行った。
今回の支援に限らず緊急人道支援では、観光では行かないようなところに入る。私たちの緊急人道支援は、支援者の皆さんから預かった大切なお金を使うので、支援が届きにくい地域の被災者に、必要な物とサービスをできるだけ早く効率的に届けることを基本としている。具体的にその被災者とは、都市貧困層の住むスラムのなかでも厳しい生活に追われている人達であったり、広大なプランテーションの中にある農園労働者の村の住民であったり、栽培しているのがGMコーン(遺伝子組み換え作物)しかない農村の住民だったり、飲料水を主として天水に頼るアクセスの悪い離れ島に住む人たちであったりする。私が訪れた被災地の多くは、災害を被る前から生活が大変厳しい地域だった。それが、災害でさらに深刻化する。災害は、社会の弱いところをとりわけ衝き、問題が顕在化してくるものだと思う。
フィリピンの経済は「好調」だ。経済成長率はここ数年6~7%と高成長を示している。一方で、失業率は7%で高止まりであり、総人口の4割が1日2ドル以下の収入である。
災害があぶり出した課題は、台風被害のフィリピンでは貧困対応であり、東日本大震災を被った日本ではさしずめ原発神話の危うさ、原発に託してきた地域開発の有り様になるのではないか。
緊急人道支援の現場では、当たり前のことながら、行政の災害対応が津々浦々まで行き届くわけではないことを実感する。災害対応で行政の役割が強い日本でも、2011年東日本大震災では多くのボランティアやNGOが、行政だけでは対応できないギャップを埋めるべく、独自に、時に行政と協働した。フィリピンでも、フィリピンの人道支援NGOとパートナーを組むものの、彼らが現場の状況すべてを掌握しているわけではない。パートナーが普段から付き合いのある地元団体と一緒に動くことになる。具体的には、市や村といった地方公共団体、社会運動系の団体、宗教団体などと協力し合う。
それでも課題はある。例えば、イスラム教徒の多い地域で、キリスト教徒のネットワークだけに頼ると、支援を必要としているかもしないイスラム教徒に支援が届かない可能性が高い。また、その団体が普段付き合っているネットワークの構成団体や地域に支援を必要以上に集中させがちな面もある。被災者ニーズに応じ、普段のネットワークを越えて、現実的な協働ができないものかと要請するときもある。
ただ、どの地域でもすばらしいと思うことがある。それはボランティアの人たちだ。被災者でありながら、地元のまとめ役になったり、支援物資の配布を手伝ってくれる。また、マニラやセブで物品調達や詰め込みを手伝ってくれる人たちもいる。現場まで足を運んでくれる人もいる。例えば、マニラからのボランティアは、レイテ島まで来て、救援物資配布を手伝い、クリスマスイベントを企画・運営から司会までを仕切り、被災した子どもたちを元気付けてくれた。外国の団体ができることは限られていると感じる時だ。
人道支援というと、災害直後の緊急支援に注目が集まる。それだけでは受身の対応でしかない。フィリピンは、20ほどの活火山があり、年間7~9の台風が上陸するといういわば「自然災害のデパート」。自然災害を避けることはできないが、事前に準備することで減災は可能だ。そうすることで、多くの命が守られ、災害後の立ち直りが比較的スムースにいくようサポートできる。何も真新しいことではない。フィリピンのNGOや住民の減災経験に耳を傾けながら、一見地味だけど大切な復興や再建に向けた取り組みを進めていきたい。