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国際人権ひろば No.114(2014年03月発行号)

人権さまざま

あなたは、ファミリー(家族、家庭)にこだわりますか。

白石 理(しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所長

世界人権宣言
第16条
3.家庭は、社会の自然かつ基礎的な集団単位であって社会及び国の保護を受ける権利を有する。

市民的及び政治的権利に関する国際規約 
第23条
1.家族は、社会の自然かつ基礎的な単位であリ、社会及び国による保護を受ける権利を有する。

児童の権利に関する条約 
前文
.....
 家族が、社会の基礎的な集団として、並びに家族のすべての構成員、特に、児童の成長及び福祉のための自然な環境として、社会においてその責任を十分に引き受けることができるよう必要な保護及び援助を与えられるべきであることを確信し、
 児童が、その人格の完全なかつ調和のとれた発達のため、家庭環境の下で幸福、愛情及び理解のある雰囲気の中で成長すべきであることを認め、
.....
[原文の「family(ファミリー)」は文脈によって「家族」あるいは「家庭」と訳されている。]
 
 私にとって家族は、かけがえのない、大切なものである。家族に問題があると、悩み心配するあまり、寝つきも目覚めも大変悪い。けれども同時に、これまで家族から喜びや慰めを受け、助けてもらったことを大切な記憶として心にとどめている。
 
 アジアの国々では、今でも家族を大切にする伝統は廃れていない。日本でもかつては、大都会を例外として、親、子、孫が一緒に住む家族がどこでも普通に見られた。私もそんな家庭に育った。母方の祖父母、おじ、おば、いとこたち、みんな容易に行き来できる地域に住んでいた。必要があれば互いに助け合うのが当たり前。家族の絆は強かった。ふるさとを離れた私は、やがて海外に職を得て結婚し、家族ができた。夫婦と子どもだけの家庭、「核家族」であった。
 
 「先進国」とされる国々で、家族の絆が解けて、家庭崩壊が進んでいると言われ始めたのは、かなり前である。日本もその例外ではない。社会が急速に変わり、人々の生き方も常に変化してきた。今では、家庭を持つことが結婚することとは結びつかない場合も見られるようになった。結婚をしないで家庭を持つ人が、結婚によって家庭をつくる人と同じくらい多い国もある。「結婚をしない」とは「事実婚」や「同棲」ばかりをいうのではない。一つの家族にいる子どもの親がそれぞれ異なるという場合もある。結婚そのものが、かつてのような「確固とした制度」ではなくなったという時代の反映なのかもしれない。結婚する人の半数が離婚をするという西ヨーロッパの国々。結婚しているか、否かを区別しない法制度があれば、結婚そのものの意味が薄れるともいわれる。結婚によって生まれた子どもと結婚以外で生まれた子どもが平等に扱われる。子どもにとっては当然のことである。家族のあり方、形も変わるのが当然の成り行きである。
 
 それでは、人の成長と福祉のために果たすファミリー(家族、家庭)の役割、特に子どもを護り育てる役割は、変わったのであろうか。
 
 家族との絆を断たれた人や、家庭の保護と援助を受けられない子どもに関わる人の話を聞いたことがある。 複雑な事情で家族との関係を断つ、あるいは家族から拒否され、孤独に生きる人がいる。人との絆が切れてしまうと、それを取り戻すのは容易でない。反対に、家庭で護られ育つことができなかった子どもが、里親に引き取られ、世話を受けるうちに、家庭の温かさを感じ取って次第に閉じた心を開いていくことがあるという。人はだれも、意識的に、あるいは無意識的に、人との絆を求めているにちがいない。家庭はそのような人と人の関わりを可能にするところであるはず。「あるはず」というのは現実にはそうでない場合があるということである。家族を失い、家庭を持たない人、持てない人、あるいは家族から拒まれた人にとっては、親しい友達や仲間との交わりが、家庭の役割を果たすこともある。自分の家族とはできなかった人とのつながり。このような例も含めて、ファミリー(家族、家庭)の大切さは、今も変わらない。
 
 家庭の保護がない子どもの姿を描いた映画、「誰も知らない」(是枝裕和監督、2004年)は衝撃的である。都会に生きる母子家族がいる。父親はいない。子ども4人はそれぞれ父親が異なっており、出生届も出されていない。母親の失踪後、四人の子どもは生命(いのち)をつなぐために、子どもなりに必死である。しかし、限界は見えている。映画は安易な希望を与えてはくれない。家族のこと、家庭の意味を激しく問いつめる。答えは容易に見つからない。
 
 今、貧困に追いつめられた母子家庭が増えているという。どこにも、だれにも助けを求めることができない、困り果てていても、頼ることも出来ない。周りのだれもそれに気付かない。家族の絆は、家庭の支えは、ない。
 
 「家庭(家族)は、社会及び国の保護を受ける権利を有する」。この権利の保障を求めないで済むのは、幸せな家庭、困っていない家族、崩壊に瀕していない家庭であろう。この人権は、なによりもまず、生きづらく、追いつめられた家族のためにある。世界人権宣言とそれに続く条約は、社会そして国が、この権利を保障する義務と責任を持つとする。「社会の自然かつ基礎的な単位である」家庭を保護し援助することは、つきつめれば、公平と公正が約束された社会をまもることでもある。国と社会そして市民が「ファミリー(家族、家庭)」を護るためにすべきことは多い。