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国際人権ひろば No.116(2014年07月発行号)
肌で感じたアジア・太平洋
ネパールの人身売買サバイバー女性たちを訪ねて
大森 恵実(おおもり えみ)
アジア女性自立プロジェクト 海外事業統括
人身売買サバイバー女性との出会い
「自分の足で歩きたい」。2012年9月、人身売買の被害にあったサバイバーのネパール女性たちにインタビューをしていた際、何度も耳にした言葉だ。10代で人身売買被害にあい、性的搾取を受け、ネパールに帰国した彼女らは、シャクティ・サムハという団体に属する20~30代の若い女性たちである。女性たちそれぞれが苦しい過去の経験を抱えながらも、前に進みたい、自立したいという想いを抱いていることを知った。
私が所属するアジア女性自立プロジェクトは、移住するアジア女性が自らの望む場所で、望む生活を送ることができるよう、女性のエンパワメントに取り組む団体である。フィリピン人女性との出会いから1994年より活動を開始し、 日本人の父親に遺棄されたジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン(JFC)の養育に関する問題や、在日外国人女性への生活支援、出身国で女性たちが生産する製品のフェアトレードなどを行ってきた。
ネパールの人身売買のサバイバーである女性たちは、インドや中東地域からの帰国後も社会からの偏見や差別にさらされ、社会への再統合が難しい状況にある。そこで女性たちの働く機会を広げるべく、2012年11月より日本の「さをり織り」という現代手織りを紹介し、さをり織り製品のフェアトレード事業を始めた。事業開始から1年の成果をみるため、2014年3月1日から11日までの日程でスタディツアーを開催し、参加者11名とともにネパールを訪ねることとなった。
シャクティ・サムハという当事者の団体
ネパール到着翌日はシャクティ・サムハの本部とシェルターを訪問し、団体の創設メンバーよりお話を伺った。シャクティ・サムハは1996年に人身売買サバイバー自身が立ち上げた団体である。1996年は、インド、ムンバイの買春地帯で大規模な摘発が行われ、人身売買被害者である女性たちが買春宿から救出された年だ。その中には200人ほどのネパール女性も含まれていたが、ネパール政府は女性たちが身元を証明できないことを理由に受け入れを拒否した。一方で、ネパール国内の7つのNGOが協同での受け入れを表明したため、救出から6カ月を経て128人の女性たちが帰還を果たした。帰国当初は、帰国した女性からのHIV感染の恐れや、処女信仰を背景とした社会倫理が乱れることなどを指摘する声がマスメディアを中心に上がり、写真や個人情報の掲載、実名報道などによる攻撃を受けた。また復学や就業を拒否されたり、故郷の村から受け入れられず帰郷できないなど、ネパール社会からの激しい反発を受けた。そのような中でサバイバー同士が自助していくため、10代の女性たち15人が集まり、シャクティ・サムハ(Shakti Samuha=力の団体)という団体を立ち上げた。シャクティの「力」には、“前に進む力”と“他地域の女性の集結”という意味が込められている。
女性たちを保護するシャクティ・サムハのシェルターはネパール国内に4施設あり、10カ所の郡で人身売買の予防と啓発、地域に暮らすサバイバーのエンパワメントなどのプロジェクトを展開している。ネパール社会から排除された女性たちの団体は、いまや地元警察のトレーニングや政府との恊働関係を築き、2011年には米国務省の「人身売買と闘うヒーロー」として表彰される、2013年にはマグサイサイ賞を受賞するなど国内外で評価される団体に成長した。現在30代となり、団体の担い手となった彼女らは、シャクティ(力)を感じる魅力的な女性たちだ。
ピクニックでのダンス(筆者撮影)
シェルターで保護され生活するのは10代の少女がほとんどで、日本で言えば中高生の年代である。10代未満の子どもや乳幼児が一時的に保護されて生活していることもある。女性たちはまだ本当に若く、成長段階である。過去よりもこれからの未来の方がずっと長く続いている。過去の経験を乗り越え、若い彼女らの可能性が少しでも広がって欲しい。
ネパール式ピクニック
今回のスタディツアーのお楽しみ企画の一つはシャクティ・サムハの女性たちとのピクニックだった。シェルターの少女たちは、ピクニックの日を指折り数えて楽しみにしており、当日は目一杯おしゃれをして現れた。
シャクティ・サムハからはシェルターの少女の他にも、シェルターを出て地域で暮らす女性たちやスタッフも参加して総勢90名ほどの人数になった。カトマンズから車で約2時間、ヒマラヤ連峰が望める標高1,524mのドゥリケルという町に出かけた。
ピクニックで驚いたことは食事の多さだ。到着して軽食、その後昼食、軽食、夕食、と何度も食事が用意された。ネパールでは通常食事は2回で、それに軽食を挟むくらいである。普段シェルターの食事で鶏肉を食べるのは週1回(カーストや信仰に配慮し、食べるのは鶏肉のみ)で、魚は肉よりも高価で普段あまり口にしない。村での暮らしでも、野菜とお米のダルバートが毎日の食事だ。つまり、肉も魚も大量に用意されるピクニックは、ごちそうがお腹一杯食べられる特別な日なのだ。
食事の合間はダンスに興じた。即席の音響設備も設置し、流行りのポップスやネパール民謡に合わせ、思い思いのダンスを披露していた。日本人参加者も女性たちに手を引かれて一緒に踊ったり、日本の盆踊りも披露して輪になったりして楽しんだ。
さらに興味深かったのが、女性たちが木の下に集まり、マダルというネパールの太鼓を手に始めたドホリである。ドホリとは即興で歌詞を考えながら交互に歌を掛け合うもので、男性役と女性役に分かれて歌う。この日は女性にアプローチする男性とそれを軽くあしらう女性という設定で、皮肉の混ざった面白おかしい歌詞を考えながら歌ったり踊ったりした。太鼓一つで人が集まり、交流を楽しむネパールの村の日常風景を垣間みたように感じた。
「さをり織り」で織りつなぎ
さをり織りは、大阪発祥の現代織りで、伝統織りに比べて自由度の高い織りである。自己を表現できる織りとして、子どもも大人も誰でも楽しむことができる。このさをりの持つ表現の力によって、作り手の女性たちに変化が見られている。故郷に帰れないある女性は、シェルターからの通学も職業訓練も続けることができず、ただシェルターで一日を過ごしていた。何もできないと思われていた彼女がさをり織りを始めた途端、色彩の美しいショールを次々と織り始めた。一日中集中して織り機に向かい、数ヵ月で他の女性に指導できるまでに成長した。彼女の織るショールは人気があり、ショールを販売した収入で少しずつ貯金しているという。この女性のように、さをり織りによって自己表現ができ、それを他者から評価されることによって、自信を回復したり、積極的な態度を見せる女性が出てきた。
日本では、さをり織りは障がい者の作業所などで用いられることが多いが、東日本大震災後、被災者の心の支えとなるよう被災地でも取り入れられた。2014年3月には、東北の被災地で作られた縦糸を使って、さまざまな地域で少しずつ横糸を通していき、一枚の布を織りつないでいくという「織りつなぎ」という企画があった。今回のスタディツアーでは、福島県からの縦糸と織りかけ布を持参し、ネパールの女性たちにも織りつないでもらった。福島県から遥か遠くネパールまで織りを通してつながった瞬間だった。
福島の縦糸を使った織りつなぎ(筆者撮影)
スタディツアーのお土産
スタディツアーでは日本での女性支援やフェアトレード活動の様子を伝える機会を設け、相互に情報共有した。サバイバー女性たちからは、「女性のために活動しているのは私たちだけではないのだ、と勇気づけられた」「もっとさをり織りを発展させていきたい」という声が聞かれ、参加者からは「元気になった」「パワーをもらった」という感想が聞かれた。サバイバー女性とのフェアトレードは、地域社会から差別される対象にある女性たちが製品を生産する過程を通して自信や自己肯定感を持ち、また経済的にもエンパワメントされることを目指しているが、私たち側も直接交流することで、力づけられていることを実感した。
日本に帰国して日常に戻った後も、青い空に白く浮かび上がる美しいヒマラヤの山々、女性たちの笑い声と輝く笑顔、熱狂したダンス、夢中でさをり織りをする光景が時折思い返され、満たされる気持ちになる。スタディツアーには素敵なお土産が付いてきたようだ。