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国際人権ひろば No.118(2014年11月発行号)
アジア・太平洋の窓
民主制への復帰か、さらなる混乱の序章か -フィジーにおける8年ぶりの総選挙の帰結
丹羽 典生(にわ のりお)
国立民族学博物館 准教授
8年ぶりの選挙開催
2014年9月17日、南太平洋のフィジーにおいて8年ぶりの総選挙が開催された。
選挙の結果は、選挙前の世論調査と合致して、フィジー・ファーストという新しい政党の勝利となった。軍事政権の首相を務めていた軍の司令官バイニマラマが、政治的権力を続けて掌握するために、選挙前に設立した政党である。ともあれ2006年に軍によるクーデタで合法的な政治的秩序が断絶したフィジーにおいて、かたちなりとも選挙を通じた政権が誕生したといえる。しかも、当初は2009年とアナウンスされていた選挙が延長されたうえでの実現であったため、様々な問題点はさておき、一息ついた関係者も多い。
総人口90万人弱の小国の政治的事件が、日本の主要メディアで注目されることはあまりないため、それほど知られていないが、フィジーでクーデタがおきたのは、2006年がはじめてではない。以下では、フィジーにおける政治問題の背景と、過去のクーデタの展開を整理することで、2014年の現在の政治的諸問題につながる状況について紹介したい。
政治問題の起源
フィジーが現在のような政治的問題を抱えるようになった背景には、大英帝国による植民地化がもたらした錯綜した政治経済的、民族的な状況がある。1874年に英領化されたフィジーでは、先住民の保護という思想が浸透し出した時期であったこともあり、土地所有権をはじめとする先住民の権利が保護された。あわせて伝統文化を保護するという名目のもと、先住民によるプランテーションでの労働は、基本的に禁じられた。
当時のフィジーには、オーストラリア資本のサトウキビ会社であるコロニアル製糖会社が、独占的企業として多大なる影響力をもって存在していた。植民地政府もこの企業の意向を無視できず、植民地の経済的運営のために重要であったサトウキビ産業における労働力の不足を補うためもあって、英領インドから契約移民労働者を呼び寄せることにした。
先住系フィジー人は文化的な保護政策を受ける代償として市場経済への進出が遅れる一方、伝統的な文化から離れた地で経済人として働くインド人が導入されたわけである。こうして現在に続く、資本を持つ企業経営者としてのヨーロッパ人、土地所有者としてのフィジー人(以下先住系はフィジー人と表記)、そして労働者としてのインド人という、多民族国家フィジーの姿が形成された。
クーデタのサイクル
あやうい民族間関係の上に築かれた政治経済的状況は植民地時代から問題視されていた。先住系として特権的な地位を占めるフィジー人と、その権益の保護者として振る舞うことで人口比率以上の地位を獲得していたヨーロッパ人、そして両者に対して平等で対等な権利を要求する存在としてインド人という、三者の微妙なバランスの上で国政が運営されていた。
1970年の独立をへて、民族問題が政治的問題として決定的なものとなったのは、1987年5月のオセアニア史上最初のクーデタをもってである。独立以降フィジーを率いてきたフィジー人中心の政党が敗退し、インド人の多数の支持を取り付けていた政党が政権を獲得したことを契機に、フィジー人の軍人によってクーデタは起こされた。先住民にとってインド人支配的と見えた政権の誕生は、みずからが生まれ育った土地を失うのではないかという危機意識を、彼らの間で先鋭化させたのである。近年の研究では、政権交代を好ましく思わなかった階層による政治的駆け引きの存在や、多国籍企業の暗黙の影響なども指摘される。
フィジーのその後の歴史は、クーデタで生み出された政治的混乱状況からいかに回復するかの試行錯誤とみることができる。1987年9月には、5月クーデタに対する解決案に不満を持つ軍人による再度のクーデタが実行された。先進的な憲法が成立した直後の2000年5月にも、インド人支配的な政権の誕生という名目を掲げてクーデタが起きた。しかし、すでにこの時点で、フィジー人対インド人という民族対立の図式をもって政治的混乱が理解できないことは、多くの人に明らかになっていた。民族問題がフィジーの政治的問題であることを否定する人はいないが、伝統と近代、階級など様々な対立の一部にすぎないのである。
そして、2006年12月には、逆説的ながら、クーデタの連鎖の原因である民族問題をなくすためという名目を掲げたクーデタが起こされた。その後2013年に新たな憲法が公布されることで―憲法制定過程も透明なものとは言い難く、多くの問題点が指摘されているが、ともあれ―、ようやく憲法上の空白状態に終止符が打たれた。
2006年のクーデタは、また、軍のトップが最初から関与したという意味でこれまでのクーデタとは異なっている。そうした背景もあり、反対勢力に対する暴力的弾圧、既存の政党、宗教団体、NGO団体などへの締め付けは、目を見張るかたちでなされた。さらに暴力的手段以外でも、軍に有利なかたちで情報産業や労働に関する法的整備を行うことで、メディアや労働組合への規制が着実になされたため、2014年までには既存の勢力は骨抜きにされていた。
フィジーの国会議事堂
総選挙の結果と今後の動向
冒頭で述べたように、とりあえず選挙を通じた政治的秩序の回復は果たしたものの、フィジーの政治に関する今後の見通しとなると、なかなかに問題含みである。政治的秩序が一般に受け入れられるためには、選挙過程の透明性と選挙運営する担い手に対する信頼性が必要不可欠であろう。ところがこの点には多大なる疑問符がつく。立候補者を制限する立法的な措置を通じて、既存の主要政党のリーダーが選挙に参加できないように事前に取り計らうなど、選挙結果に対する社会一般の信頼を醸成するにはほど遠いのが現状である。
軍事政権側の目から見れば、今回の選挙でとりあえずルールに基づいた政治へと復帰する足掛かりを得たといえる。それを梃子に、悪化している国際関係の改善を図るとともに、国内的にも足場を固める第一歩となるであろう。ただし選挙で勝利し第一党となったとはいえ、野党は3割の投票を獲得しており、彼ら敵対勢力とその支持者との協調は今後重要な課題となって行くであろう。また、2006年以降まともに国家予算や議員報酬が、会計監査されたことはなかったが、今後は、いっそう厳しい応答責任にさらされていくことになるであろう。軍の論理では命令ですむようなさまざまな手続きが、公衆の眼前で問われることになる。それに対して法令で締め付けられているメディアや既存の政党、組合関係者がどのように政治的に関与していくのか注目されよう。今回の選挙結果が、本来の意味での民主制への復帰となると、さらなる混乱への序章に過ぎないのかは、今後の展開にかかっているといえる。