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国際人権ひろば No.119(2015年01月発行号)
人権さまざま
赦し
白石 理(しらいし おさむ)
ヒューライツ大阪 所長
世界人権宣言
第1条
.....人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第8条
すべての人は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対し、権限を有する国内裁判所による効果的な救済を受ける権利を有する。
前号の「国際人権ひろば」(2014年11月、No.118)のこの欄で、「和解」について述べた。締めくくりは次のとおり。
「ひどい人権侵害の被害者は、ほとんどの場合、長期にわたるトラウマに悩まされる。人権侵害の事実が明らかになり、責任者の処罰があっても、トラウマから抜け出すことは難しい。真摯な改悛を伴う謝罪と償いがあって初めて、和解の望みが生まれるという教訓である。」
その後、読者からのコメントが届いた。その中で、「赦しについて触れていないのはどうしてか。改悛と謝罪があっても赦しがなければ、和解は成立しないのではないか」という。確かにそのとおりである。そして、そこで述べた泰緬鉄道建設で酷使された捕虜の話では、和解ができるまでに、確かに赦しがあったことをうかがい知ることができる。
人権が関わるのは、人権侵害の事実が明らかになり、責任者の処罰、侵害の是正、被害に対する補償その他の適切で効果的な救済があるというところまでであろうか。世界人権宣言は、改悛、謝罪、赦し、和解については述べてはいない。それでは、これらは、個々人の心の問題なのか。世界人権宣言第1条には漠然と「互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とある。「謝罪」、「赦し」そして「和解」は、この「同胞の精神をもって」の行動なのか。
司法が曲りなりに機能しているところでは、人権が侵害されると、加害者は、改悛、謝罪があるなしにかかわらず、処罰を受け、賠償その他の法的責任を負わされる。
一方、加害者は、自分のしたことの重大さを理解して悔い改め、謝罪するということにはならない場合もある。
加害者に対して、自分がしたことを認め、謝れと要求しても、それがないからといって、強制によって加害者から満足な謝罪を引き出せるわけではない。真摯な謝罪は、自主的に加害者の 内面から出るものであろう。これは難しい。改悛と謝罪がない場合に被害者の側から赦すというのは普通にはありえない。無条件の赦しがあるとしても、それは例外である。普通には、改悛も謝罪もないときに赦しは期待できない。
また、たとえ改悛と謝罪があっても、赦しは簡単には出てこない。加害者からは、「謝っているのに、赦してくれない」、「何度謝れば、赦してもらえるのか」、「もう謝り疲れた。いい加減、許すと言ってほしい」などと聞くこともあるが、「赦し」も「謝罪」と同じように、赦す側の内面から出るもので、強制で本当の「赦し」を引き出すことはできない。
深刻な人権侵害の被害者は、多くの場合心身の傷を抱える。トラウマ、フラッシュバック、パニック、自傷や自死の衝動など。加害者に対する怒り、憎しみ、復讐への固執なども容易に消えることはないであろう。長い時間をかけた傷の癒しが必要である。
世界では、人権侵害の加害者が処罰されることなく、人権を護る義務を負う国も知らん顔。そんな状況が珍しくない。深刻な人権侵害が是正されず、被害者に対する適切で効果的な救済もない。いつ終わるともしれない侵害状態に耐えることを強いられる被害者。差別、抑圧、搾取など、社会の構造的な不正や理不尽な格差。司法も行政も満足に機能しない。人権侵害の事実や責任の所在がうやむやにされて、加害の認知がない場合に、真摯な謝罪は期待できない。当然ながら被害者からの要求は高まり、不正への抗議と被害者に対する救済の要求は高まる。力を持つ勢力からの抑圧とそれに対する抵抗。人権問題はこうしてその深刻さを増すことになる。本当の「赦し」も心を開いた「和解」も限りなく遠のいていく。歴史を見れば今に至るまで、このような事例に事欠かくことはない。
人権侵害の加害の認知、改悛、謝罪、赦し、そして加害者と被害者の和解。被害者と加害者がそれぞれ、人間として辿る長いそして難渋の道すじ。この道すじには、被害者の苦しみがある。真摯に謝罪したいと願う加害者の苦しみもある。
どうして和解の前提としての「赦し」に触れなかったかと問われて、自分が人間を人権という側面だけで取り上げているのではないかとか思いついた。人間は、いろいろな側面から見ることが大切である。人権は、人間をその一側面、社会的側面から見ることであろうか。人間を心理的、感性的、精神的、文化的、経済的、政治的あるいはもっと深い存在論的に見ることも欠かせない。人間存在の全体を見るのを忘れないようにしたい。