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国際人権ひろば No.120(2015年03月発行号)

特集 ヒューライツ大阪20周年を迎えて

基調講演 「国際人権の危機を手がかりにした成長?ヒューライツ大阪の20年を振り返って―」

武者小路公秀 ヒューライツ大阪会長

 まず、型通りにヒューライツ大阪の設立の経緯の説明から始める。1983年、当時国連人権センターの人権担当官であった久保田洋さん(故人)が大阪に国際的な人権の情報センターをつくりたいと提案されたことを受けて、部落解放・人権研究所の友永健三さんなどの活動により、大阪府と大阪市がこれを支援し、人権運動、部落解放運動や在日コリアン運動の団体や個人が参加して93年に「アジア・太平洋人権情報センター設立委員会」がつくられ、94年12月に設立された。その目的は、アジア・太平洋地域の人権伸長に資する国際的な人権情報を、国連などの協力と地域の諸国および人びとの相互理解と友好をもとに収集・提供することによって、人権を通じての大阪の国際交流ならびに府民の国際的な人権感覚の醸成に寄与することであった。
 ここから、私の個人的な考えを自由に話させていただく。大阪はもともと歴史的にも人権都市であった。太閤秀吉は「文禄・慶長の役」という悪いこともしたが、よいこともした。それが、千利休と一緒に始めた、北野の大茶の湯である。武士、町民、農民などの身分の区別を取っ払うという型破りの茶会を開き、この平等主義の茶の湯の精神で大阪中心の日本統一の夢をもった。「難波のことは夢のまた夢」といって死んだ豊臣秀吉が夢見ていたのはそういう平等な日本の中心としての大阪だったと思っている。
 現代でも、大阪はヘイトクライムの問題に見られるように、日本の中でも人権問題とその解決が表出している場所でもある。部落解放運動、在日コリアン、移住者と市民が協力する運動、ジェンダーや子どもの権利に向けた運動などが大阪に集中している。
 そういう大阪で国際的な市民活動を日本でサポートしたのが、ヒューライツ大阪である。ヒューライツ大阪は、現代の権力と財力の格差拡大によって、競争社会をグローバルな規模で確立させようとする新保守主義・新自由主義に対抗して、人類をはじめ、すべての生きとし生けるものの共生を求める人権社会を確立する生命共同体を求める流れの拠点として、アジア・太平洋を中心に大阪に「難波の夢」をもたらす役割をもっている。
 冷戦が終わり、ソ連が崩壊し、新しい秩序をつくろうという中で国際的なプロセスができてきている。92年リオで環境問題サミットが開催され、生命の権利が謳われた。93年はウイーン国際人権会議で、女性の権利は人権であることが確認された。また、2001年にはダーバン反人種主義世界会議が、2002年にはヨハネスブルグで持続可能な開発世界首脳会議が開催されている。国際人権は、このような現代史の大変革のなかで育ってきたのだし、今も育ち続けている。
 ところで、人権がこのように発展してきたことを見ると、人権の第1世代と言われるのが、米国の独立宣言やフランス革命の時代の自由権を中心とした人権の考え方である。第2世代は、東西冷戦の中から現れた、社会的、経済的、文化的権利である。その後、先進国と発展途上国との対立の中、発展途上国から主張されてきたのが、第3世代の発展の権利である。そして、私の考えであるが、生命の持続可能性の危機に直面した現在、第4世代の生命、尊厳と多様性の権利がでてきているのではないか。
 第1世代、第2世代と人権は当初西洋世界で発展してきたが、現代になって、非西洋世界での人権の発展がみられる。日本国憲法には平和に生存する権利があげられているが、これは、第二次世界大戦の際、南京事件のように人が平和に生活しているところに土足で踏み込んだことへの反省から今後日本は侵略しないと決断してつくられた。また、ラテン・アメリカからは平和に暮らしている人たちが平和に住み続けることができる権利を含んだサンティアゴ宣言がつくられ、人権理事会で平和に対する権利として検討されている。
 以上のような世界の人権問題が深刻化する中での国際人権の育っていく中で、大阪でも困難な人権状況の中であればこそ、ヒューライツ大阪の夢は現実味のある「正夢」だといえる。
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