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国際人権ひろば No.122(2015年07月発行号)
アジア・太平洋の窓
サイゴン陥落から40年 ~いま、人びとは何を想う~
村山 康文(むらやま やすふみ)
フォトジャーナリスト
4.30記念式典
サイゴン陥落(ベトナム戦争終結)から40年が経った。2015年4月30日、ホーチミン市(旧サイゴン)の統一会堂(旧南ベトナム大統領官邸)前のレズアン通りで、「南部解放・南北統一40周年記念式典」が開催され、軍や警察、一般市民や学生を含む、およそ6,000人が大規模な軍事パレードに参加した。
式典には、チュオン・タン・サン主席やグエン・フー・チョン共産党書記長、グエン・タン・ズン首相らも参加。ズン首相は演説で、アメリカ帝国主義との戦争を「歴史的な偉業」と称賛し、「ベトナムの独立と南北統一は新時代を築いた」と語った。
パレードの終盤では、濃緑色の制服を着た青年たちが「南ベトナム共和国(南ベトナム共和国臨時革命政府;南ベトナム解放民族戦線)」の国旗を翻しながら登場。続いて、その「南ベトナム共和国」の国旗は、徐々に「ベトナム民主共和国(統一後のベトナム社会主義共和国)」の国旗に入れ替わり、瞬く間に道路一面を真っ赤に染めた。その演出は、まるでベトナム戦争時に解放戦線が徐々に南下して、いよいよ南部の「ベトナム共和国」と北部の「ベトナム民主共和国」が統一し、「ベトナム社会主義共和国」の誕生を表しているかのようにも思えた。
終戦から40年を迎えた今、ベトナム戦争(第2次インドシナ戦争)に関わった人びとは、どのように感じているのだろうか。
記念式典のもよう(2015年4月、筆者撮影)
南北統一を求めた人たち
ハノイ市の軍事技術大学で医療を学び、戦争当時、中央軍事病院108で医者として勤務していたダン・ティ・ミン・ドックさん(68)。ホア・ロー刑務所に収監されていた米軍パイロットの治療も担当したという彼女は、「南北統一のために、ベトナムの将来のために、わたしたちは頑張りました。今はそれが成し遂げることができて、とても幸せです」と話した。
1961年からベトナム民主共和国(北ベトナム)の記者として仕事をし始め、戦争中は南ベトナム解放民族戦線らと行動を共にし、解放戦線の兵士や庶民の生活をカメラに収めたホアン・ヴァン・サックさん(81)。ベトナム戦争終結40周年を記念して、ホーチミン市の戦争証跡博物館で写真展を開催した際、「ベトナム戦争の『真実』を、写真を通して多くの人に知って欲しいと願っています」と、スピーチで語った。
戦争には必ず敵がいる。19世紀初頭のプロイセンの将軍カール・フォン・クラウゼヴィッツが執筆した「戦争論」。その中で彼は、「戦争の内在的な本質とは単純化すれば敵対する二者による決闘の性質である」と論じ、「戦争の暴力性は、敵を強制してわれわれの意思を遂行させるために用いられる」と記した。
では、ベトナム戦争において「強制され、意思を遂行させられた人びと」、つまり、「南ベトナム政府軍(ベトナム共和国軍)」や「米軍」をはじめとする連合軍らの人びとは、戦後40年をどのような気持ちで迎えているのか。
元連合軍兵士たちのいま-アメリカにて
1969年4月からおよそ1年間、ベトナム南部のドンナイ省にあったロンビン米軍基地に陸軍として派兵されたマイク・ドナヒューさん(72)。「ひとチーム40名で派兵され、うち7名の同士が命を落としました。ベトナム戦争は終わりの見えない戦争でした」と、アメリカ・ワシントンD.C.にあるベトナム戦争戦没者慰霊碑に刻まれた同士の名前を手でなぞりながら当時を振り返った。
1973年1月27日、フランス・パリにおいて、ベトナム民主共和国(北ベトナム)、ベトナム共和国(南ベトナム)、南ベトナム共和国臨時革命政府(南ベトナム共和国)、アメリカの間で調印された「ベトナム和平協定(パリ協定)」。同年1月29日にアメリカのニクソン大統領はベトナム戦争の終戦を宣言し、同年3月29日に米軍は撤退を完了する。しかし、それからベトナム戦争終結までの2年余り、ベトナム国内は同じ民族同士の「内戦」と呼ぶに相応しい状態に陥った。
南ベトナム政府軍に従軍し、南ベトナム解放民族戦線らと戦ったベトナム人のチュン・アン・ルーさん(64、仮名)。1969年、戦闘中に右下腿部から先をロケット弾によって失い、74年8月の終戦前に南ベトナム政府軍を離脱する。
「平和になった今、当時の戦いは関係ありません。わたしは元南ベトナム政府軍の兵士だから、何を主張してもコミュニスト(共産主義者)らにはかないません。政治の話をするのは、こんな公の場では避けた方がいいよ」と、筆者と一緒にほろ苦いコーヒーを口にしながら苦笑した。
ベトナム戦争は、終結後に「インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジアの三国の総称)難民」と呼ばれる多くの難民を生んだ。統一後のベトナムは、社会主義体制に移行されたため、同体制下で迫害を受ける恐れがあった人びとや体制に馴染めない人びとが自国外へ脱出。その数は、およそ144万人に達し、うち130万人がアジア地域の難民キャンプを経て、アメリカ、カナダ、オーストラリア、フランスや日本などの第三国に定住した。
ベトナム戦争が終結した翌年、親兄弟をベトナムに残し、たったひとりで国をあとにしたグエン・チャンさん(63)。タイ・カンボジアを経て、アメリカにたどり着いたのは、24歳のときだった。戦時中は南ベトナム政府軍の訓練所にいたが、戦後まもなく、コミュニストらに自宅を壊され、食べ物を奪われた。「このままでは殺される」と思い、同じ境遇の人たち21人と一緒に簡易の小型ボートに乗り合わせ、海を渡った。
現在、チャンさんはアメリカ・バージニア州にあるベトナム人らが集うショッピングモールの一角にカフェを構え、幸せそうに暮らしている。しかし、当時の話になると、急に寂しそうな表情になり、「あまり覚えていないよ」と口を閉ざす。
マイク・ドナヒューさん(2015年3月、筆者撮影)
自分の経営するカフェでコーヒーを飲みながら話すグエン・チャンさん(2015年3月、筆者撮影)
戦争の傷
1954年、第1次インドシナ戦争を終結させるために、スイスのジュネーブでインドシナ和平会談が開かれ、同年7月に「ジュネーブ協定」が締結される。その協定により、北緯17度線より北に共産主義の「ベトナム民主共和国」、以南に反共産主義の「ベトナム共和国」に分断されたベトナム。
協定では、両地域が協定の2年後に全国選挙を行い、統一することが定められていた。しかし、ベトナム共和国政府は「両地域の国民の8割が共産主義に投票する」と考えていたため、統一選挙を拒否した。これを受けて、1959年、ベトナム民主共和国は「南部解放」「南北統一」を目指して軍事行動を起こす。翌60年、北ベトナムの勢力は、南部で「南ベトナム解放民族戦線」を結成し、ベトナム共和国軍との間で激しい抗戦状態となる。そして、同年12月、ベトナム戦争へとなだれ込んでいく。
1960年初頭、多くのカトリック信徒から支持を得ていたベトナム共和国のゴ・ディン・ジエム大統領は、ベトナム戦争が始まると仏教徒への弾圧をますます強化する。それに反発を強めた反ジエム体制の南ベトナムの仏教徒らが63年11月、ジエム大統領と弟を暗殺した。
当初、アメリカは直接的なベトナム戦争への軍事介入を避けていた。しかし、「ベトナムが共産化すれば、近隣諸国にも影響が出る」という「ドミノ理論」を展開し、1964年8月、北ベトナム沖で米艦船がベトナム民主共和国の哨戒艇に攻撃を受けたとする「トンキン湾事件」をでっち上げ、翌65年2月には北爆を開始した。
およそ15年間続いたベトナム戦争では、58,000人を超える米兵と南北合わせて320万人を超えるベトナム人の死者を出したとされる。(資料:R.J.ラムル・ハワイ大学名誉教授;STATISTICS OF DEMOCIDE)
ベトナム戦争とはいったい何だったのだろうか。終戦から40年を迎えた今も、枯れ葉剤の影響などで体に障害を持って生まれてくる子どもたちばかりだけではなく、心に大きな傷を残している人たちがいる。近年のベトナムは驚くほどの経済発展を成し遂げてはいるが、そうした人びとの心の中に残された傷はいつ癒えるのだろうか。