特集 今こそ、平和と人権を考える
早春というべきか、3月になったばかりの肌寒い日々、アメリカ人脱走兵をかくまったことがある。
今から47年前、1968年のことだ。その3年前の1965年、アメリカは北ベトナムへの爆撃(北爆という)を開始し、ベトナム戦争は本格化していた。沖縄の嘉手納基地からは巨大なB52機がハノイに向けて出撃した。ベトナムに送られた米兵の数は10万人を越え、ベトナム・アメリカ双方の犠牲者が激増していた。(最終的にベトナムに派遣された米兵の数は50万人に及び、うち5万8千人が死亡した。ベトナムの犠牲者は、民衆も含め、数百万人にのぼる)
そして1967年秋、横須賀に寄港したアメリカの航空母艦から4人の水兵が脱走したことが大きく報道された。いわゆる「イントレピッド4」である。4人は、横浜から観光船でソ連のナホトカに着き、中立国のスウェーデンに渡った。4人が日本を出た後、彼らを支援したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)は日本で撮影した4人の姿を公開した。
当時、日本人が脱走の手助けをしたという報道を知って「へえー、こんなことがあるんだ」と感心していたぼくに、職場の先輩が相談を持ちかけてきた。「アメリカ人の脱走兵を預かってくれないか」というのである。信頼していた先輩だった。一切秘密で、誰にも言ってはならない、メモは残すな、という条件がついている。前年までぼくも住んでいた京都の伏見区にある実家の母にわけを話して、母の家に泊めることにした。3日間という約束である。
そして3月2日、脱走兵がやってきた。
メモも残さずに40数年前の日付を覚えていることはできない。実はメモがあった。母は1999年に亡くなったが、小さな手帖を残していて、調べてみると、1968年3月2日の欄に「ヒミツ」と書いてある。そして前日にはカーテンを買い、掃除をし、錦市場などで買い物をしたことが記されている。
やってきたのは19歳の、まだあどけなさが残る若者だった。キャルと呼んでくれと言った。こちらは片言の英語しかできない。キャルの日本語は「ちょっと待ってね」、「すみません」くらいである。意思が通じにくく、彼も居心地がよくなかったと思う。でも苦労してコミュニケートしているうちに、だんだん打ち解けてきて、2日目だったと思うが、彼の承諾を得て、16ミリのフィルムで撮影することにした。まだビデオがない時代で、録音機で音を別にとった。
その映像をみると、キャルはすき焼きを食べている。フォークで肉を突き刺している。母が箸でシラタキを掬(すく)いとり、キャルの小鉢に入れてあげている。うしろには石油ストーブがたかれていて、ネコがそばにいる。食事が終わって、キャルは横になり、ネコにマイクを向けて語りかける。「ミャーオ。カメラが回っているよ。君は俳優だぞ。マイクもあるぞ、さあ、なにか歌えよ」。
そのうち、アルコールが入ったようで、キャルは鉢巻きをして、なにかやるぞというジェスチャーをし、中国語と称して、インチキ言葉を話す。コメディアンのつもりだろうか。包装紙のままお菓子を食べようとして、がっかりするギャグを演じる。演説もする。「ビア(ビール)・イズ・グッド、ウイスキー・イズ・ベター、サケ(酒)・イズ・ベスト」。すっかりくつろいでいる。
真面目になったとき、脱走の理由を聞くと、マイクに向って次のように答えた。
「犯罪行為が行なわれているからだ。脱走という極端な行動をとったのは、アメリカの軍隊が、私の愛する国、アメリカを傷つけているからだ。これがベトナム戦争に抗議するぼくのただ一つの可能な行動なのだ。このことで人々はぼくの抵抗精神に気づく。もしぼくが軍隊の中でベトナム戦争反対を叫んだら、ぼくは牢に閉じ込められ、人々の目から隠されるだろう。だからぼくは軍隊を脱走し、自分の気持ちをみんなに知らせることに決めた。これが最善の方法だ」。
脱走の声明を読み上げるキャル
キャルはベトナム人について次のように語った。
「かつてアメリカは1776年、植民地からの解放をめざしてイギリスの抑圧と闘った。アメリカの抵抗は絶対的な勇気に支えられていた。ベトナム人は同じことをしているのだ。彼らの頑固さは、絶対的な勇気だ。アメリカはベトナム人の勇敢さを狂信的というが、ベトナム人の抵抗の持続は、自由世界の人々の支援によっているものとぼくは理解するようになった。最終的には、人々は怖れや憎しみ、偏見のあとに、戦争ではなく、平和を求めるだろうと言いたい」。
ぼくはキャルの言葉に共感した。戦場を経験してきた彼の安全を守り、彼が安らげるように努力しようと思った。最後の日、キャルが街に出たいと言い出し、友人の車で京都の街にでかけた。客の少ないスナックで、キャルは酒を飲み、悪酔いした。
3日間、我が家に泊まったあと、キャルは迎えにきた車に乗って、次の受け入れ先に向かった。3月5日のことである。さらに1か月余り、関西各地を転々としたあと、4月下旬、北海道の根室港から蟹をとる船に乗って、他の5人の脱走兵とともに日本を脱出する。彼らはモスクワで記者会見し、スウェーデンに行った。もっとも、ぼくがこうした脱出ルートを知ったのは、翌年になって出た新聞の記事だった。
彼らを脱出させたのは、「ベ平連」の人たちが作った「ジャテック(JATEC、反戦脱走米兵援助日本技術委員会)」というネットワークである。サンケイ新聞は「ベ平連の“地下組織”にメス」、とか「アジトに教授や外交官宅」とか、うさんくさそうな見出しをつけて報道した。“地下組織”はオーバーで、内実は、市民の連帯ネットワークだった。同じような形で17人がストックホルムへ逃げた。特筆すべきは、脱走兵に関わった人の誰もが秘かにことを運び、密告もせず、脱出を成功させたということだ。
やがてベトナム戦争も終わり、脱走兵のことは忘れさられた。その後、1990年代に入って、脱走兵の日本訪問がテレビで報道されたり、当時の事情を書いた本も出版されたが、関係した人たちが脱走兵について語ることは少なく、亡くなった人も多い。
今年になって、ぼくはキャルの映像を公開することにした。気がかりなのは、生きていたら67歳になるキャルが今、どんな生活をしているかだ。もしすべてを隠して暮らしているなら、その生活を乱したくない。一方で、脱走兵が市民の家にいる動画映像は他にないと思われ、映像がこのまま朽ちることも避けたかった。結局、今年の1月、京都・伏見で市民の映像を上映している学生たちに見せ、ベトナム戦争や、日本政府の政策などについて話した。学生たちは「自分たちは脱走できるだろうか」などと話し合っていた。
今年はベトナム戦争が終わって40年の年になる。当時、韓国はアメリカに協力してベトナムに5万人の兵を送り、5千人が戦死している。日本は平和憲法のおかげで自衛隊を派遣しなくてすんだ。集団的自衛権が認められなかったからだ。今後の日本はどうなるのだろうか。
改めてベトナム戦争や、脱走兵、支援した市民の力を考える時期であるように思う。ぼくはキャルを捜し出し、会うことに決めた。