特集 今こそ、平和と人権を考える
2015年5月、スイス、ジュネーブで催された「奉仕する芸術」協会主催の競売に招かれて参加した。この競売によって集められる資金はすべて、シリア医療緊急支援団体連合(UOSSM)に提供されるとのこと。UOSSMは身体、精神両面の医療を支えるシリア内外の医師の集まりで、特に長期の戦乱によって傷ついた人々、特に困難な状況に置かれ、戦闘に巻き込まれ、あるいは暴力の犠牲となる人々に救援の手を差し伸べてきた。なかでも、トルコ-シリア国境にあるレイハンリ(Reyhanlie)という町の女性と子どものための心理療養所の支援を続けてきたという。
競売の前に、展示された数十点の作品を見た。異なるジャンルの絵画やオブジェがあったが、すでに名の通った作家による諷刺画やコミック画に交じって、この諷刺画「子どもと兵士」があった。
ペンで描かれたこの作品、兵士がにんまりとしながら右腕を挙げて指でVサイン。兵士の右側に、疲れた様子の悲しげな顔をした男の子が立つ。兵士と同じように右腕を挙げている。しかし、そこにあるはずの手がない。包帯が巻かれた腕に赤い血がにじみ出ているだけ。
これは、ハニ・アバス(Hani Abbas)の2014年の作品である。競りが始まっても誰からも入札がない。最後に私が申し出てこの「強烈なメッセージ」を発する諷刺画(オリジナル)を手に入れた。
作者のハニ・アバスは、シリア、ダマスカス近郊のヤルムーク・パレスチナ難民キャンプで生まれた。新聞、雑誌の諷刺画家としてシリアで活動していたが、同僚の諷刺画家やジャーナリストがシリア治安当局に暗殺され、あるいは失踪したのを目の当たりにして、シリアから亡命。その後アラビア語圏で広く購読されている英字紙 アルハヤットや衛星テレビ局アルジャジラで働くが、再び身の危険にさらされ、二度目の亡命生活を送ることになる。
ハニ・アバスは、2013年カタールのドーハで報道の自由世界大賞を受賞し、さらに2014年、「平和のための諷刺画家団」から諷刺画家として世界最高の栄誉である「報道諷刺画賞」を受賞した。「平和のための諷刺画家団」はフランスの著名な諷刺画家プランチュ(Plantu)によって創設された団体で、「報道諷刺画賞」は、2年毎に、平和に対する責任、言論の自由のための闘い、赦し、その他人道的な課題を取り上げて、その勇気と才能を認められた諷刺画家に与えられるという。
諷刺画は、日本ではあまり見かけなくなったが、海外の新聞、雑誌では頻繁に掲載されている。政権を批判するもの、深刻な事故、災害、事件などを扱ったものなど、諷刺を効かせたもので、これを見るのが楽しみという購読者は多い。最近フランスで、諷刺画がイスラム教の預言者を侮辱したとして、諷刺画を掲載した週刊誌が攻撃され殺傷事件が起きたことは記憶に新しい。
諷刺画「子どもと兵士」から伝わってくる「強烈なメッセージ」とは何だろう。作者のハニ・アバスはシリアでの圧政と内戦を生き抜いてきた経験からこの諷刺画を描いた。人の生命(いのち)が使い捨てにされ、ごみのように踏みにじられる日常を体験した者が、その存在をかけて繰り出すメッセージである。
「子どもと兵士」ハニ・アバス作(2014年)
ここからは、このメッセージを受けとめる私の思いである。
圧政による弾圧、そして戦争や武力紛争の犠牲者の中には、常にもっとも弱い立場に置かれた人々がいる。武器を持って争う紛争当事者、戦闘員ばかりではない。戦いがたとえ、「自由のため」、「正義のため」、「自衛のため」などもっともらしい理由で行われようと、危害は非戦闘員である一般市民に及ぶ。アフガニスタン、イラクそしてシリアで今も当たり前のように起きている一般市民の殺戮(さつりく)、誤爆、戦闘の巻き添え。戦争の過酷で悲惨な現実である。
平和への希求、赦しと和解、痛み、苦しむ人たち、もっとも配慮すべき人たちへの共感と思い入れ。ハニ・アバスの諷刺画は語ってやまない。
この諷刺画から、私の思いはさらに、今の日本の安全保障関連法案にまつわる議論に至る。
現政権は、2014年7月の閣議決定によって日本国憲法9条の解釈を変更して、「集団的自衛権」の行使が憲法の下で許されるとした。日本が緊密な同盟関係にある国と相互に防衛し合うための「集団的自衛権」の行使容認である。国際連合憲章の中で初めて出てきたこの「集団的自衛権」という概念は、すでにできつつあった軍事同盟による武力行使を正当化するために新たに考え出されたもので、本来の「自衛権」ではない。
憲法9条の解釈変更によって認められる「集団的自衛権」行使を具体化する安全保障関連法案が国会で可決されれば、自衛隊の海外派遣とそれに伴う武力行使が容易になることは想像に難くない。同盟国軍の「後方支援」だけと言っても、派遣される部隊が攻撃の対象となることは当然のことであろうし、隊員が戦闘にさらされる危険度は飛躍的に高まる。それと同時に、部隊の武器使用によって敵対する戦闘員を殺傷するばかりでなく、一般市民を巻き添えにする、あるいは誤って殺傷することさえ起こりうる。諷刺画「子どもと兵士」で描かれた兵士を自衛隊員に置き換えてみると、隊員自らが曝されることになる危険ばかりではなく、市民を巻き込んで危害を加えかねない危険がそこに見えてくる。
第二次世界大戦後これまでの70年間、日本は、戦争にも武力紛争にも巻き込まれることはなかった。憲法9条がそれを許さなかったのである。海外で殺し殺されることのなかった日本の自衛隊である。他方、これまで兵士を戦場に送った国々には、命を失う者そして身体のみならず精神的にも負傷して戻る者が多くいる。そのような元兵士、「国のために」戦った人たちの社会復帰の難しさがそれらの国々の社会課題になっているという。命がけの戦闘と敵兵や市民を殺したことから来るトラウマにいつまでも苦しみ続ける元兵士たちである。
だれしも、戦争はできれば避けたいというのが正直なところではないか。国の責任を担う者にとっては、なおさらのことであろう。しかし、用心のため、仮想敵国に侮られないために、最新の軍備を整え万一に備える。それが、何かの拍子にそこにある武器に手をかけることになる。武力行使はたいていの場合、「自衛」のためといわれる。国によっては、「ならず者国家を罰するため」であったり、「人々に自由を取り戻すため」であったりする。いずれにしても結果は悲惨である。国際社会が目の当たりにしてきた武力行使の例がそれを雄弁に証している。
この一枚の諷刺画によって、私の思いは、シリアとイラクで苦しみ悲しみ続ける人々のこととともに、日本がこれからどのような道を歩むことになるのかという懸念に向かう。