肌で感じたアフリカ
2009年9月から約2年間、東アフリカのケニアで、青年海外協力隊員として、視覚障害のある学生にあんま・指圧の技術を教える機会を得た。私が住んでいたマチャコスは、ケニアの首都ナイロビから南東へ約60kmの中規模地方都市で、降水量の少ない乾燥した地として知られるところだ。
気候は当初の私の予想に反し、赤道直下にも関わらず、マチャコスが標高約1400mと高地に位置するため、暑くても30度を少し超えるくらいで、最低気温も18度ほどと大変過ごしやすい恵まれた気候で、アフリカにいることを忘れてしまいそうなほどだった。また、ナイロビ?マチャコス間をマタツと呼ばれる小型バスに乗って移動していると、ときどきハイウェイ沿いにキリンやシマウマなどの野生動物を見ることができた。人々はとても気さくで、穏やかだ。私がケニアで活動を始めた2009年は、内紛から2年半ほど経った後だったが、内紛があったとは思えないほど平和な空気だった。2007 年末、ケニアにおいて大統領選挙が行われ、その結果を巡り国内に40を超える民族の多数派キクユ族とルオー族を中心に犠牲者1000人を超える内紛が起きた。国連や国際社会の介入により鎮静化されたその内紛も今は遠い昔のことのように人々は語っていた。
マチャコスには、当時東アフリカでただ一校だけの、視覚障害者のための技術専門学校があった。そこが私が活動していたマチャコス視覚障害技術専門学校だ。そこには皮革(加工)、木工、 編み物、コンピューター、点字、杖歩行などの科があり、ケニア国内から視覚障害者が技術習得のために集まってきていた。私の任務は、その学校に前任者が新しく設立した、1 年制のあんま・指圧科確立のためのカリキュラムの作成や、あんま・指圧科に在籍していた4 人の生徒たちへ授業を行うことだった。日本のあんま・指圧はオイル・軟膏などを使用しない乾性のマッサージの 一種である。その指先の感覚の鋭さにより、視覚に障害がある人々によっても行われてきた歴史がある。そして彼らはその技術により収入を得、家族を養い、自立した社会生活を送ってきた。その文化をケニアに根付かせることが私の最終目標だと考えて約2年間活動してきた。
授業は、理論は私や前任者が英語に翻訳した日本の教科書を使って教え、それを生徒たちが点字でノートに書き取るという形で行った。特に重要な解剖学や生理学、東洋医学を中心に、経営についての講義や日本語などを含め、様々な授業を行った。実技はまず英語で説明し、理論と同じように点字でノートを書き取らせた後、私が実際に生徒たち一人一人に施術して体で感じてもらうようにして進めた。わからなければ何度でも繰り返し私が施術し、体で覚えてもらうようにした。その後はお互い生徒同士の施術による練習をしてもらった。また課外授業として、体に不調を抱える他の科の生徒たちや先生たちを顧客として受け入れた実践形態の授業も行った。
マチャコス視覚障害技術専門学校での授業の様子
生徒が使っている点字のノート
このプロジェクトは、日本の視覚障害者団体がケニアにおいて、ケニアの視覚障害者の自立支援のために行った、「あんま講習会」という活動が元となっている。ケニアにおける視覚障害者の状況は過酷だ。富裕層と貧困層の経済格差がとてつもなく大きなこの国では、貧困層の医療事情が著しく悪い状態で、日本では問題視されないような病気で健康状態が悪化することで重症化し、その影響で視覚に障害を持った人々も多い。
家族に金銭的余裕があったり、運よく援助してくれる人が見つかれば大学へ進学したり、 家で何をすることなく過ごすこともできるが、貧困層の視覚障害者の多くは家族に捨てられ、路上で物乞いをする生活を送っているのが現状だ。実際この学校の生徒たちの幾人かは、幼少時に家族に捨てられ、自分の所属する教会や、施設、出身地方の政治家たちの援助により育てられてきたという経歴を持っている。また、目が見えなくなったのは「行いが悪いため」といった偏見や差別も多く、私の同僚の視覚障害のある教師は銀行へ行った際、そこの警備員に、「お前みたいな目の見えないものが何をしに来た、お前の来るようなところではない。出て行け」と罵られたそうだ。他に聞いた話で、編み物を販売していたときに、視覚障害を持つ人が編んだとわかった途端、その場から離れていくという人もいたと聞いたことがある。
公用語として使われているスワヒリ語は、人に関する単語、物に関する単語という風に表記の仕方が分けられているが、視覚障害者をあらわす単語は物を表す表記の仕方が使われている。残念ながら、同僚の教師陣の中にも偏見をもったものが少なからず存在しているという現実もあった。実際学校で教えている技術では飯は食っていけない、と公言している教師もいた。その偏見を払拭するため、校内デモンストレーションを数回行い、校内の人々の意識改革も行った。その結果、当初とても協力的とは言えなかった人々も徐々に理解し、あんま・指圧の可能性を感じ、協力を申し出てくれるようになってきた。そうしているうちに、時間にルーズで集中力や根気のなかった生徒たちも、時間を守るようになり、授業にも集中するようになった。自分の勉強していることに自信がつき、可能性を見出したのだと思う。
私が活動していた当時、ケニア国内に、あんま講習会受講者と、前任者が教えたマチャコスの卒業生6人を合わせ、15人ほどのあんま・指圧師が活動していた。学校での授業のほかに、彼らに対する技術指導、就職先の開拓、宣伝活動なども行った。しかしながら、あんま・指圧といってもそれが何なのかケニア国内において、全くと言っていいほど知られていなかった。そのため、ケニア在住の日本人社会に頼っているのが現状だった。また悔しいことに、かわいそうだから利用しているという残念な声も耳にしたこともある。需要は確かにあり、それなりに収入を得て自立した生活を送っているケニア人あんま・指圧師もいる。しかし、このままでは、マチャコスの卒業生が増えれば増えるほど、小さいエリアで顧客の奪い合う状況が進む可能性があった。これでは本当にケニアにあんま・指圧が根付いたとは言えない。ケニア人社会に受け入れられてこそ、この文化が本当にその地に根付いたと言えると考えている。 ケニア国内では、マッサージに対して性的なイメージを持つ傾向があったり、西洋式のオイルマッサージと混同されるため、日本のあんま・指圧の広報活動の一環として、様々な場所にてデモンストレーションを行ったり、学校で、地域の人たちを顧客として受け入れて実際にあんま・指圧を体験してもらうといった活動も行った。また、マスコミにも取材を要請し、TVにも取り上げてもらった。ケニアの観光リゾート地である海岸地方をターゲットに、各ホテルにデモンストレーションの開催の話し合いを持ったこともある。日本のように観光地の宿泊先にあんま・指圧、という風になればとの思いからだ。その結果、初年度4名、次年度6名の卒業生を送り出すことができた。そしてゆくゆくは、それぞれが自分の治療所を持って、自分の技術で自立した生活を送れるようになれば、と考えている。
マチャコスでのデモンストレーション
ときには文化の違いや、考え方の違いに戸惑うときもあったが、目が見えなかったり、肌の色や言葉は違っても、みんな同じ人間だ。意志もあれば感情もある。恋愛ももちろんする。ケンカもする。私は、このあんま・指圧の技術・ 文化は、彼らケニアの視覚障害者の人生を良い方向へ大きく変えることができる、と信じて日々活動してきた。帰国後の現在は、地元愛媛で治療院を開業して施術を行う毎日だが、日本からケニアの視覚障害者の支援を続けていきたいと考えている。